天秤
その瞬間は唐突に訪れた。
「しまッ……」
九龍がいつになく焦った様子で口走る。
直後、化人の腕が弾丸のように飛んできて、九龍の姿は一瞬で吹っ飛ばされた。
皆守の目は攻撃を受ける瞬間も、彼の体が遺跡の壁をぶち抜くさまも捉えていたが、隣の八千穂は何が起きたかも分からずに硬直した。
化人が唸りながら体勢を立て直す。
仕留め損ねたのか。
珍しい、と思った。あんな直情径行型のくせをして、戦闘では慎重派だ。確実性を重んじ、リスクは取らない。
それが皆守たちバディを万が一にも傷つけないためらしいと知ったのは、たまたま九龍が単独で遺跡に潜った翌日の朝、癒えきっていない生傷に気づいたからだった。一般人に怪我を負わせるわけにはいかないが、自分はある程度なら構わない、ということらしい。
「九龍クンッ」
八千穂の悲鳴が、現実逃避じみた思考を引き戻す。
狭い通路の中、八千穂も皆守も、普段より九龍に近い位置を陣取っていた。だから彼は不意に迫る攻撃を下がって躱すことができず、まともに食らった。
とはいえ、命に関わるようなものではない。九龍が改めてとどめを刺すまで、自分たちの身を守ることだけ考えればいい。皆守の中の冷静な部分はそう判断を下している。
なのに、傍らの八千穂の声や、その肌に触れそうなほどの距離まで迫った化人、H.A.N.T.の機械音声が、頭の中を掻き乱す。
もしもこのまま、九龍が立ち上がってこなかったら?
いま、二人の命を守れるのは皆守だけなのではないか?
『血圧低下、心拍数低下、自発呼吸に異常』
こんな相手、いざとなればどうとでもなる……だが、そうすれば九龍にも八千穂にも皆守の正体は隠し通せまい……そうなったら?
優先順位を決めることができない。そんな自分に戸惑って、さらに動けなくなる。
自らの攻撃の反動でたたらを踏んでいた化人が、低い呻き声を上げながら、いよいよこちらに照準を合わせる。
体は、自然と八千穂を庇うように動いた。
だが、幸いにしてというべきか、皆守の出番はなかった。
銃声とともに化人の片腕が弾け、巨体は砂塵と化す。
『敵影消滅。探索体勢に移行します』
「あ……ッ」
八千穂が息を呑み、ラケットを握り締めたまま走り出す。
九龍は瓦礫に背を預け、うずくまって肩を押さえていた。すぐそばに愛用のアサルトライフルが落ちている。
生きているという事実にほっとしたのも束の間、苦い自己嫌悪が胸を苛んだ。友人の命と自らの保身を天秤にかけるとは。実際のところそのジレンマにはすでにいやというほど襲われているので、もともとの疼痛に針を刺した程度の痛みが加わっただけだったが。
葛藤はとりあえず後回しにして、九龍のもとへ急ぐ。
「ぐ……ッ」
ひどく背中を痛めた様子で、冷や汗をかいて顔を歪めている。能天気な九龍の初めて見る表情に、焦りが一瞬で掻き立てられた。
「おい、しっかりしろッ。まさか折れてやしないだろうな」
「九龍クン、しっかり」
八千穂はためらいなく膝をつき、九龍の手を握った。落ち着かせるように、ゆっくりと二の腕をさする。
九龍のもう片方の手は空いていたが、皆守はその手を取れなかった。
ほんの一歩で跨げてしまいそうな距離が越えられず、立ち尽くす。
しばらくして、ふー、と大きく息をついた九龍は、汗まみれの顔でニカッと笑った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと息できなくなっただけ」
「何が『ちょっと』だ、馬鹿野郎」
皆守は苛々した口調で毒づいた。腹立たしいことに、いつもの笑顔を目の当たりにした瞬間、安心を取り戻した自分がいた。
「ごめん、装備変えたばっかで少し計算が狂った。二人とも怪我してない?」
「あたしたちは大丈夫だよ。それより九龍クンが……」
「これくらい、歩いてれば治るって。それより二人が無事でよかった!」
「お前な」
「民間人に怪我させると、ペナルティきついんだよ。あーよかった」
皆守が雷を落とそうとしたのを察してか、九龍はあっけらかんと笑い飛ばした。八千穂も物言いたげではあったが押し黙る。元気が取り柄だが、機微の読めない女ではない。
「よっと……い、痛ッ……わり、甲太郎、魂の井戸まで肩貸して」
「あたしも貸すよッ。皆守クン、半分こしよ」
半分こって。普段なら言葉選びに突っ込んでいたところだが、八千穂がそうっと九龍に肩を貸したので、皆守も九龍の反対側の腕を取って自分の肩に乗せる。
腕にも痺れがあるように見えたので内心おっかなかったが、それは銃撃直後の一時的なものであったらしい。九龍は「助かる〜」と呑気に笑った。土埃と汗でぐちゃぐちゃになった顔で、一人ではまっすぐ立つことさえできないのに。
「あ、待って、俺が壊した壁の奥に《宝》の気配が……」
「後にしろ」
「でもー」
「また付き合ってやるから。八千穂、この馬鹿とっとと連れてくぞ」
「う、うんッ。歩けそう? いくよ、せーのッ……」
「よいしょー。あー、助かる。持つべきものは心優しいバディだなー」
八千穂の号令で、九龍は不格好に歩き出す。
勘弁してくれ、と思った。
物理的距離が近すぎるせいで、喉に引っかかるような喘鳴が嫌でも耳に入る。
あと何回、こんな姿を見ればいいのだろう。こんなに近くで、手を貸すことすらしないで。
自分で選んだ道でありながら、それはまるで拷問のように感じられた。