ひとりの地球

 小蝿の飛び回る音がする。
 深夜の呼び出しにうんざりしていたせいか、皆守はそう考えてしまった。実際には虫などいない。音の正体は、壁の向こうから聞こえる同級生の笑い声だった。
 内容が聞き取れるほどの音量ではないが、絶えずさわさわと鼓膜をくすぐられ、無意味だと承知しつつも耳元を手で払ってしまう。吐き気の種が頭をもたげた。雨で濡れた学生服を拭き、努めて意識を逸らす。睡眠時間を削られたあげく、悪天候下の移動を強いられ、寮の自室でも安らげない。最悪の夜だった。
 制服を吊るそうと壁に近づいた瞬間、笑い声が一段と大きくなった。皆守は舌打ちする。疲れていなければ、蹴りの一つも見舞ってやるのにと思った。
 隣室の住人の顔は知っている。言葉を交わしたこともある。ごく普通の少年だ。
 皆守がこんな時間に寮を抜け出してどこへ行っているかなど、彼には想像もつかないだろう。
 安っぽい壁を一枚隔てただけで、皆守と彼は明確に分断されている。この隔絶はおそらく卒業まで続くはずだ。向こうが真実を知る日が来るとすれば、それは《墓》に入る時だろう。
 彼が高校生らしく夜を楽しむ一方で、皆守は自らを偽り、闇に潜むことを日課としている。
 こんな日々がいつまで続くのか。考えたところで、ろくなイメージは浮かばない。未来というのは、皆守にとって来世と同じくらい遠い場所だった。
 とりあえずかろうじて予想し得る未来、すなわち明朝のために靴下を脱いでいると、ふいに廊下でガタンと音がした。隣室がすっと静かになる。
 いつもなら放っておくところだが、廊下の様子が気にかかり、皆守は部屋のドアを開けてしまった。呼び出しの直後で過敏になっていたのかもしれない。
 廊下へ設置された電灯のカバーの中には、虫の死骸が残ったままになっている。そのせいで欠けた光は、倒れ込む男の姿を部分的に照らしていた。見事なもので、皆守以外の誰も顔を出さない。おかしな事態に巻き込まれたくないのだろう。この學園の生徒は飼育されることに長けた者ばかりだ。
 この《転校生》は、そういう意味でも異質だった。
 うつぶせの体勢ではあったが、怪しげな装備の数々は、隠されることもなく青白い光に晒されている。
 葉佩が、顔だけをこちらへ向けた。どことなく肌が煤けているようだ。
「皆守か……。どこ行ってたんだよ……」
「俺がいつどこへ行こうが、俺の勝手だろ」
「そうだけど。おかげでこっちは八千穂と二人、大変だったんだぜ」
「知るか。夜遊びなら、取手にでも声をかければよかっただろ」
「悪いじゃん、昨日の今日で」
 葉佩が《墓守》――取手鎌治を撃破したのは、ほんの二十四時間前のことだった。一夜明けて、もう少し探索したいから付き合ってくれと頼まれたものの、皆守には野暮用があったので断った。どうやらその後、八千穂と二人だけで遺跡へ向かったようだ。
 泣きぼくろの目立つ笑顔が翳るさまを想像してしまい、背筋がぞわっとする。葉佩の様子からして何事もなく終わったのだろうが、一般生徒の八千穂が怪我でもしたらと思うと、気持ちのいいものではない。結局、皆守には彼女の好奇心を止められなかったという負い目もあった。
 なぜ止め切れなかったのか。
 こいつのせいだ、と論理を帰結させる。見たところ、横たわる罪人に怪我はなかった。だが、全身がうっすらと小汚い。
「で、いつまでそこで寝てる気だ?」
「起きたい……けど疲れて動けない……」
「あの……、どうかしたのかい」
 低い声がする。葉佩の顔を覗き込む皆守の上へ、さらに影が落ちた。ジャージ姿の取手が身を屈めている。
「取手……。お前こそどうした?」
「物音が聞こえたんだ」
「確か、お前の部屋はこの辺りじゃなかったはずだろ。よく気づいたな」
 皆守は彼の部屋の位置を思い出そうとしたが、失敗に終わった。保健室で会えば話すが、それ以外で親しく交わるような仲でもない。
 取手はのろのろと頷いた。
「眠れなくて……」
「そうなの? 大丈夫?」
 葉佩がようやく体を起こし、他の寮生を起こさぬようにか小声で尋ねる。取手はまたゆっくりと頷いた。
「考え事をしていただけだから……。心配してくれてありがとう」
「そっか。ならいいんだけど。実は、俺も昨日の夜はなかなか寝つけなくてさ。眠れないつらさは、ちょっとわかるよ」
「へェ、お前にそんな繊細さがあったとはな」
 冷やかす皆守にもうろたえず、葉佩は廊下へ座り込んで暗視ゴーグルを外した。ベルトに沿って潰れた髪を、手でくしゃくしゃ掻き回す。そんな仕草は他の生徒と変わりなかった。
「命に関わる場面の後だと、どうしてもね。アドレナリンとかがドパドパ出てるんだろ、たぶん」
 取手が言葉を発するまでやや間があった。それはきっと、葉佩の言う「命に関わる場面」が昨夜の戦闘を指すと理解するまでにかかった時間だった。
「……ゆうべは……」
「そうそう、見てここ! 昨日の夜、ハート形の痣ができたんだ」
 取手の声に被せるようにして葉佩が言い、手袋を外す。皆守もつられて視線をやると、彼の手の甲には小さな痣があった。奇妙なのは、油性ペンで顔が描き足されていることだ。
「何だ、この八千穂が描いたみたいな人面瘡は」
「お、鋭いね。正解」
 皆守は、先ほど大真面目に彼女の身を案じたことを後悔した。二人で楽しくやっていたらしい。
 即席の顔を大事そうに撫でた葉佩が、ふとこちらを見上げる。
「皆守は、眠れない時どうしてる?」
 問われた瞬間、いつかの夜の記憶がぱちんとフラッシュバックした。
 疲弊した肉体と、皮膚に絡みつくシーツの感触。隣の部屋から聞こえてくる異世界のようなさざめき。耳を塞いで眠りの世界へ逃げ出したいのに、それが許されない息苦しさ。
 あの時の皆守は、何から逃げ出したいと思っていたのだろう。
 それを考え始めると、黒い砂・・・のようなものが思考を遮り、答えにたどり着くことはできなくなった。
「……さあ。特に何もしてないな」
 皆守の唇は平然と言葉を紡ぎ出す。
「ただ黙って耐えてんの? 参考にならないなー。じゃあさ、そういう時は俺の部屋に来るのはどう? 旅行しようぜ、旅行」
 葉佩が笑いかけてくる。唐突な「旅行」という単語に、皆守と取手は面食らった。
「ああ……修学旅行のように、ということかな」
「あ、そう、修学旅行。俺、行ったことなくてさ。取手はある?」
「あるよ。大きな部屋にみんなで泊まって……僕は布団から手足がはみ出てしまうから、他の人にぶつからないように一番隅で寝たな」
「そうなんだ? ロングサイズの布団にしてくれればいいのにな」
「旅館にはないだろ、そんなもん」
 皆守は呆れて口を挟む。結局、蘇りかけた眠れぬ晩の記憶は立ち消えてしまったが、そのことにどこかほっとしている自分もいた。
「ないんだ。不便だなー。俺の部屋に二人が来る時は用意しとくから」
「おい、俺まで巻き込むな。なんでわざわざお前の部屋なんかですし詰めにされなきゃならないんだ、馬鹿馬鹿しい」
「え? じゃあ皆守の部屋でもいいけど」
「いいわけあるかッ」
 九龍と皆守のやりとりに、取手が笑う。
「ありがとう、二人とも。なんとなく体が暖まった気がするよ。これなら眠れそうだ」
 元から顔色の優れぬ男なのでわかりにくいが、言われてみれば血色がよくなっているような気がした。九龍がやっと腰を浮かせる。
「そう? ならよかった。じゃあ、もう遅いし、俺も寝ようかな」
「おやすみ、葉佩君」
「うん、取手も皆守も、おやすみ」
 二人はすっきりした顔だった。別れの挨拶をして、部屋へと帰ってゆく。
 皆守も自室に戻り、今度こそ寝る支度をした。くたっとしたルームウェアに着替えながら、ふと室内を見回す。やはりこの部屋に三人はあり得ない。個室といえば聞こえはいいが、ここには単身で住むのに必要なだけの居住スペースしかなかった。そんなことはあの二人も承知しているだろうに。
 制服のスラックスをハンガーにかけようとして、そういえば、と気づいた。壁の向こうの音はもう聞こえない。さすがに隣の住人も眠りについたのだろう。
 古くて狭い部屋の中は静まり返っている。まるで人類が絶滅した後の世界だ。
 ベッドに入ると、心地よい疲労感が全身を包み込んだ。静寂が音のない子守唄になって、瞼を重くさせる。
 濡れた体も九龍や取手と話す間に乾いたようで、べったりした不快感はもうない。皆守は毛布を耳まで被って丸くなる。
 雨の音すら聞こえなくなっていた。もう止んだのだろうか。そうだといい。また濡れながら登校するなんて、考えただけでうんざりする。
 聴覚の端っこで静けさを確かめるうちに、皆守はいつしか眠りに落ちていた。

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