記念日

「本当に帰んの? 泊まってけばいいのに」
 靴紐を結び直す間に言われ、九龍は笑いながら辞退した。
「さすがにクリスマスまで居座れないよ。しかも新婚夫婦の家になんて」
 男は柱にもたれかかり、それはそうだが、と言いたげな表情を浮かべた。
 ここはオレゴン州ポートランド。といっても、中心部からはいくらか離れている。丘の上にあるこのこじんまりとした一軒家は、何もかもが居心地よく整えられており、住人の人柄を感じさせた。家主お気に入りの大きな窓を覗けば、雪化粧を済ませたフッド山の姿も拝むことができる。
 《ロゼッタ協会》に所属する昔馴染みが結婚し、こちらへ引っ越したというので、近くまで来たついでに寄ったのだった。先刻までテーブルの向かい側でころころ笑っていた細君は、独身貴族に手土産を持たせようとキッチンを走り回っている。
 今日は十二月二十四日、クリスマスイヴ。本来は家族と過ごす日だが、遺跡の中で時間の感覚を失っていたこともあって、非常識なタイミングでの訪問になってしまった。幸い、それでも二人は暖かく迎え入れてくれた。
 食事も素晴らしかったけれど、このところずっと単独で依頼に取り組んでいたため、食後の団欒の時間が何よりのご馳走だった――という本音は、口には出さないでおく。
「この後はどうすんの? 親の家とか?」
「さあ、二人が今どこにいるかわかんないからな。ホテルで適当に過ごすよ」
 九龍は答えながら立ち上がり、つま先でとんとんと床を蹴った。外はまだ明るいとはいえ、窓から見える街路樹のシルエットは絶えず揺れ続けていて、風の勢いと冷たさが伝わってくる。寄り道せず、まっすぐ宿へ戻ったほうがよさそうだ。
 マフラーを首元へきつく巻きつける九龍に、彼がこそこそ耳打ちする。
「お前、今十九だったよな? 次は二年後に来いよ」
「二年後? なんで?」
「オレゴン州じゃ、酒が飲めるのは二十一歳からなんだよ。やっぱり芸術鑑賞にはアルコールがないとな」
 にやりと笑う顔に、言外の意味が読み取れた。ポートランドといえば、ストリップバーが多いので有名だ。九龍は思わずキッチンのほうへ目を走らせた。
「おいおい。奥さん怒らない?」
「そういうのいけるクチだから大丈夫。なんなら、他にも誘ってみんなで行こうぜ」
 候補者として挙げられた名前の数々に、九龍は微笑を浮かべる。よくもまあ即座に「らしい」面子が思い浮かぶものだ。
「じゃあ、俺が二十一になったらな。その前にやらかして、よそへ飛ばされるなよ」
「ははは、この家も協会の持ち物だし、断言はできねーな。お前こそ、バーの入り口で止められんなよ」
 冗談っぽくこづかれる。人種からいえば平均的であるとはいえ、ハンターとしてはちびで童顔の九龍は、いくつになってもスクールボーイ扱いだ。
 日本にいる間はただの《少し筋肉のついた一般人》になれて新鮮だったなぁ、と思い出しかけて、記憶を制御する。唇は自動的に笑みを作っていた。
「俺はもう大人だよ」
「どうだかなァ」
「お待たせ」
 奥方が駆け寄ってきて、紙袋に入れた手土産を渡してくれた。全世界共通のスターバックスのロゴ。二つの尾を持つセイレーンが九龍を見上げ、誘うように笑っている。
 夫妻に別れの挨拶をして、九龍は彼らの家を出た。街路樹や建物の陰には、まだ昨晩の雪が残っている。今日は久々によく晴れたが、人出はそう多くない。みな自宅でのんびり過ごしているのだろう。
 そんな中、道の向こうから親子連れがやってきて、九龍とすれ違った。ダウンジャケットで体の線をぷくぷくに膨らませた男の子が、母親と手を繋ぎながらスキップしている。リュックサックはスーパーマン仕様だ。
 小さなヒーローを目で追っていると、彼は信号の前で立ち止まり、左右をよく見回してから母親の手を引いた。いっぱしにエスコートしているつもりらしい。
 自分は大切な相手を守れると信じ切っている。子どもの特権だ。
 信号が変わる。男の子は横断歩道を渡り切り、閉店中の店のショーウィンドウへと走り出した。母親が慌てて彼を抱き上げ、クリスマス仕様の装飾を見せてやる。
 近くの教会からは、数時間後に本番を迎えるのだろう、クリスマス・キャロルの練習をする声が漏れ聞こえていた。男の子が興味を引かれて飛び出しかけ、母親に手を引っ張られている。
 視界をちらつく白い影、鼻先のつんとした痛み、街中のポインセチア。世界のすべてが九龍に思い出させる。
 ちょうど一年前の今日だ。ある意味では記念すべき日ともいえる。七面鳥もシャンパンもなかった日本での夜、九龍はとうとう大人になった。
 自分の手では誰も救えないことを知ってしまったら、もう子どもではいられない。
 九龍は足を止めて親子連れを眺めていたが、北風に首をすくめ、また歩き出した。
 両手はコートの中だ。
 もう子どもではないから、九龍は一人で歩ける。

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