デイ・オフ
かちゃっ、と鍵をかける音がした。
皆守の耳にもそれは届いていたが、いちいち目を開けるのが億劫だ。毛布とシーツの間にある、この世の幸福をありったけ煮詰めた空間でうつらうつらしていると、やがて正午のチャイムが聞こえてきて、いよいよ
靴下を履きながら大あくびをする。真っ昼間だというのにカーテンは閉め切られ、古いワンルームにはリボンほどの細さの光しか差し込んでいない。
テーブルの上には、空き缶とコップが点在している。つまみを乗せた皿だけは昨夜かろうじて水に漬けた覚えがあった。その先の記憶はないが、酔った皆守が無意識に洗っていたと祈りたい。
神頼みと片づけは後回しにして、ひとまず顔を洗う。鏡にはいかにも連勤明けらしい顔が映っている。肌にしゃばしゃば冷水をかけてタオルで拭くと、ややマシになった。外出の予定もないので、髪と髭は寝起きのままほったらかしだ。
身も心もまだ半分眠っているようで、フローリングへ腰を落とす動作は機敏とは言いがたい。カーテンはまだ開けないでおいた。寝起きに眩しい光を浴びたら蒸発してしまう。
テーブルの下に転がっていたリモコンを拾い、とりあえずテレビをつけた。
「流れること水の如し! コガメ便~!」
途端に低予算感溢れるコマーシャルが流れ始め、皆守はしかめ面で音量を下げた。おそらく九龍が暇潰しにローカル局の番組でも見ていたのだろう。
そういえば九龍は、とようやく思い至り、狭い部屋を見回す。アルコールを摂取したせいで認識は曖昧だが、寝る直前までは隣にいたはずだ。
よく見ると、テーブルの上に書き置きがある。皆守は重石代わりにされていたコップをどけた。
――コンビニ行ってきます。
チラシの裏への走り書きだ。高校時代よりさらに日本語の筆記が下手になったな、と皆守は思ったが、なんとなく捨てられず、読みさしの本へ挟んでおくことにした。
本を本棚へ戻そうと立ち上がったついでに、やっとカーテンを開ける。かくしてこの部屋にも、世間よりいくばくか遅い昼が訪れた。知覚し得なかった朝は果たして存在したといえるのか――。まっさらな日光に顔を漂白されながら、哲学的な思索に耽る。薄々勘づいていたが、二日酔いだった。
毒々しいほど健康な光に照らされてみると、室内の空気は明らかに澱んでいる。何はともあれテーブルの上を片づけなければ今晩の食事もままならない。昨夜皆守が座っていた側にある発泡酒の缶は、振るとちゃぷちゃぷ音がした。
缶とコップ、そして祈りむなしくシンクに放置されていた皿も洗う。枚数は少ない。三十路手前に差しかかり、量を食べるよりも、多少のつまみでちびちびやるほうを好むようになってきた。あの頃は想像もつかなかったが、皆守甲太郎もちゃんと年を取るのである。
一方で、昔と変わらない部分もあった。用が済むとすぐ寝転んでだらけようとするところなど、まさにそうである。皿洗いを終えた皆守はベッドにころんと横たわったが、目はぱっちり冴えていた。起きたばかりなのだから当然だ。
かといって、動く気も起きなかった。同僚には仕事好きが高じて週八で働いているようなのも存在するが、皆守に言わせれば愚の骨頂だ。休日は休息を取るためにあるのだから。
さて、午後はどう休もうか。皆守は目を瞑り、自堕落な計画の立案にいそしんだ。
「けん、けん、ぱっ」
が、外から聞こえてくる高い声が邪魔をする。子どもの群れが近くにいるようだ。
「けん、けん」
昼食を済ませたなら昼寝でもすればいいのに、よりによって外遊びだなんて。皆守の幼少期とは比べものにならぬ勤勉さだ。ボリュームを抑える配慮はまだできないらしく、叫ばないと死ぬのかと思うような大声が響いてくる。
「けん、けん、けん、けん」
しかしいつまでけんけんしているつもりだろう。類まれなバランス感覚である。この前、気まぐれに少しばかり体の使い方を教えてやったが、もう習得したのかもしれない。子どもの成長は早いものだ。
電灯からぶら下がる紐を引っ張り、部屋の明かりを消す。皿洗いという高難度の業務は達成済みで、人類の叡智の結晶たる布団の感触と、かしましい子どもの声が体を包み込んでいる。この後の予定はなく、寝ても起きても皆守の自由。
これぞ休みだ。
皆守が全身で休日を満喫していると、玄関のほうで物音がした。
「ただいまー」
どっ、どっ、どっ、と男の足音が近づいてくる。
「まだ寝てたの?」
九龍がレジ袋を床に置く。ちょっとした軽食どころではない、重たい音がした。再び明かりをつけられてしまい、皆守はベッドの上で丸くなる。
「見てわからないか? 昨夜食い散らかした後始末を終えて、羽を休めてるところだ」
「あー、そういえばテーブルが綺麗になってる」
皆守の偉業は「そういえば」の一言で済まされてしまった。九龍は冷蔵庫を開け、ごとん、ごとん、と何かを収める。
「また酒か」
横着して、ベッドの上から皆守が尋ねた。
「そう、また酒」
九龍が完全には乾いていないコップを持ってきて、テーブルにセッティングし直す。皆守側には、家庭用としてはお高めなカップアイスが置かれた。
「俺の分だけか?」
ベッドから身を乗り出し、上半身をひねってアイスを手に取る。期間限定のカレー風味。
「皿洗いしてくれたお礼ってことで」
「で、また汚すわけか」
「さすがに今度は俺が片づけるよ」
そこまで身勝手な男じゃない、と九龍は胸を張るが、怪しいものだ。皆守も人のことは言えないが、彼が何かに熱中して他を失念するのは日常茶飯事である。
「甲ちゃんの今日の予定は?」
それを聞いてからコンビニへ行けばいいのに、缶ビールのタブを起こした後に問いかけてくるのが九龍らしい。
皆守はベッドのふちに座り、アイスの蓋を開けた。よほど不人気だったのか、カップの側面には薄く霜がついている。
「ああ、たった今決まったぜ。午後の予定は休みだ」
「午前と変わんないじゃん」
すぐそばで九龍が笑う。
休みの価値を押し上げた本人には、この貴重さがわからないようだ。言葉で伝える代わりに、皆守はカップを差し出し、半日ぶりに彼と乾杯した。