あの空の下に何がある?
「そういえば、あれってなんの建物だろう」
九龍がかねてからの疑問を口にしたのは、もうだいぶ寒くなってきたころだった。その日は久しぶりにぽかぽかした陽気で、皆守が外の空気を吸いたいと言ったので、二人してパンと牛乳を買って屋上で食べることにした。
日々肌に感じられる季節の移り変わりなど緩やかなものだが、こうしてみると明らかに冬が近づいていた。他愛ないおしゃべりをしようと口を開けたときに飛び込んでくる空気は、かすかに枯草の匂いがする。
皆守はいちばん北風の当たらない一角を陣取って、カレーパンの封を開けたところだった。そっちにご執心かと思いきや、いちおう返事はしてくれる。
「都庁だろ」
「都庁……」
脳内のマップとこの學園の位置関係を結び合わせる。東京都庁。雲ひとつなくひんやりと澄みきった空の下、龍の頭のようなものが二つ繋がったいびつな塔が屹立している。
人口一千万人をゆうに超える大都市の要所。もちろん興味はある。九龍の心を読んだかのように、皆守が釘を刺した。
「ただの役所だぞ」
「行ったことあるの?」
「行きたくて行ったわけじゃないが、学校行事でな」
「へえー」
ということは、校外学習か何かだろうか。先生に引率される皆守少年を想像してみる。堅苦しい説明をろくすっぽ聞かずにうとうとして注意されていそう。そして、まったく意に介さなそう。
「何かよからぬことを考えてる顔だな」
「そんなことないって。でも、ホントにただの役所なの? 俺の中のトレハンレーダーが反応してるんだけどなぁ」
「まあ、ここも対外的には『ただの高校』だからな」
皆守が牛乳パックのストローを袋から出し、引き伸ばして箱に挿す。ぷつっと音がして尖った先端が薄い膜を破り、吸い上げられる白い液体。瓶のミルクならいくらでもストックがあるからあげると言ったのに、出所が怪しいからと断られた。正々堂々と生徒会室から持ってきたものなのだが。
「都庁の下にある、あの林は……」
「中央公園。あっちのほうがいわくつきかもな。昔、花見シーズンの真っ最中に通り魔騒ぎがあった。犯人は、美術館だか博物館だかから日本刀を盗んだっていう異常者だったが」
「へー、花見ってことは桜が見られるんだ? 行ってみたい」
「いまの話の感想がそれか?」
皆守が薄く笑い、二個目のカレーパンに噛みついた。
「お前なら、都庁のほうものんきに展望台を満喫してそうだな」
「展望台があるんだ? いいな、都内が一望できそうじゃん。甲太郎、行ったことある?」
「ああ。曇ってたと思うが」
「じゃあさ、じゃあさ、春になって桜が咲いたら、晴れてる日に見に行こうよ! 展望台から景色見て、公園で弁当食べてさ。甲太郎、案内してよ」
皆守が食べ終えたカレーパンの袋が、骨ばった手からぽろっとこぼれ落ちた。風に煽られ、あっという間に遠ざかる。九龍は急いで立ち上がり、フェンスを乗り越える寸前で捕まえた。ゴミを野に放つのはよろしくない。
「セーフ!」
我ながら素晴らしいキャッチ能力だった、と自画自賛しながら皆守のもとへ戻ると、彼は下を向いてライターをいじっていた。食後すぐにとは、依存症の域に達していないか心配になる。がぢっ、がぢっ、と濁った音がしてなかなか火がつかず、九龍が手で覆いを作ってやるとようやく小さなオレンジ色が灯った。
ふー、と皆守が息を吐き出す。ゴミ箱代わりのレジ袋に九龍がカレーパンの袋を入れても、目もくれない。
「よく取ってきた! よしよし! とかないわけ?」
冗談めかした九龍の言葉に、見慣れた横顔が微笑する。
「犬かよ」
「ここ掘れワンワン、で《宝》が見つかったらいいんだけどね。……あ、でも、桜が咲くころには甲太郎もみんなも卒業してるか。近いと思ったけど、別の場所にいる可能性もあるよな」
「まだ続くのか、その話」
「だって楽しみだからさ。って、結局いまみたいにカレーパン買ってだべってるだけかもしれないけど。それはそれで変わらない幸せってやつだよな。そう思わないか?」
「さあな」
皆守の視線は空の向こうではなく、その手前のフェンスで止まっているようだった。据えつけられてから一度もペンキを塗り直していないかのような色あせた細い金属。これがなければもう少し眺めもよさそうなものだが、おかげで景色の大半は小さなひし形に区切られている。
いくら場所を選んでも多少は吹きつけてくる北風に、九龍は小さくくしゃみをする。皆守が何も言わずに半歩横へずれたので、ありがたくお邪魔することにした。なんとなく暖かくなった気がする。
年齢も、学生服に包まれた肩の位置も変わらない。だが、どうやら二人が見ている場所は違うようだ。
「考えたこともない」
九龍は皆守の横顔をじっと見つめたが、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、視線が合うことはなかった。