深夜放談
初めての温泉は、九龍の骨という骨をくたくたにした。
「はあー、あっつー……」
体の芯がずきずき疼いている。皆守は部屋の冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、九龍に投げ渡してきた。
「だから、はしゃぎすぎだと言っただろ」
そういう皆守は普段よりいくらか血色がいい程度で、まっすぐ背筋を伸ばし、喉を鳴らして水を飲んでいる。湯船に浸かっていた時間は大差ないはずなのに。親指で口の端を拭って脚を組もうとしたが、浴衣なのでうまくいかなかったらしい。居心地悪そうに座り直した。
その正面にある椅子でどろどろに溶けていた九龍は、冷たい水のおかげでようやく人の形を取り戻した。砂漠で口にするそれともまた違う、格別のうまさだ。
仕事で諸国を回ることはあっても、優雅な旅行というものに縁のない九龍を温泉へ連れてきたのは、他ならぬ皆守だった。
きっかけは、九龍がチリからかけた一本の電話である。その日、凡ミス続きでぽっきり心の折れた《宝探し屋》は、珍しく依頼を終えた後にまでそれを引きずっていた。
こういうときは誰かに慰めてもらいたくなる。ヒビの入ったスマートフォンの画面を前に、九龍は逡巡を繰り返していた。
日本時間では深夜だ。三度の飯より睡眠が好きな彼のこと、どうせ出ないだろう。戯れにかけてみるだけ。何度かコール音を聞いたら、電話を切ろう。
そう思って画面をタップしたのに、皆守はすぐに応答したばかりか、この小旅行の日程を組んでくれたのだった。九龍が落ち込んでいたのを察したのかもしれない。もしそうなら、処方としては完璧だ。空港からひなびた温泉地へ直行した体は、背負ってきた疲労を忘れてふにゃふにゃふやけている。
「なあ、甲ちゃん」
抜けていった熱の代わりに訪れる眠気と格闘しながら、九龍は彼に尋ねる。
「温泉ってさ、風呂に入る以外はどう過ごせばいいの? せっかく来たんだから楽しみたいよな」
「そうだな……、一般的には、周りの店をぶらついたりするんじゃないか」
「あー。来るときにちょうどシャッター閉めてたよな」
飛行機の最終便と在来線の終電を乗り継ぎここまで来たのだ。到着は深夜で、土産物屋はあらかた閉まっていた。
「あとは、そうだな。仕事を忘れて部屋でのんびり過ごすとか」
「それは今やってる。他には?」
「ここぞとばかりにいちゃつく輩も、いるにはいるか」
「うーん、まあその中だったらそれかな」
「消去法で選ばれるのも癪だな」
渋い顔をした皆守が、ふと体を起こす。
「ん? 九ちゃん、ちょっと立ってみろ」
九龍は立ち上がり、椅子の横で気をつけの姿勢をとった。同じく腰を上げた皆守の指が、くいっと浴衣の衿を引っ張る。
「やっぱりな。左右が逆だぞ」
「え、逆とかあんの?」
「一応、和服ってのは着方が決まってるんだよ。直してやるから手を挙げとけ」
九龍が軽く両腕を浮かせると、皆守は固結びされた帯に手をかけた。暗い紫色の、浴衣よりも硬くて細長い布だ。
彼が引っ張るのに従い、ほどけた帯がしゅるしゅると引き抜かれてゆく。腰の骨の上を擦れる感触が熱い。
「こっ、甲ちゃん」
「なんだよ」
「なんかこれ、エロくない?」
思わぬ発見に喚き出す九龍とは対照的に、皆守はつまらなそうな顔で衿の角度を調節する。
「カレーにりんごを入れるのと同じくらい定番だな」
「マジ? 意外とむっつりだな、日本人」
九龍は衝撃を受けた。
十八歳のときに三ヶ月だけ在籍した高校の男子寮で、成人向けの映像や雑誌が回ってきたことはある。そんなものに頼るくらいなら誰か引っかけにいくわ、と内心思っていたので、和製ポルノの詳細な内容までは知らなかった。《宝探し屋》は概して肉食だ。
あのとき一歩踏み出していれば、そこには未知の世界が広がっていたのかもしれない。言い方は悪いが、こんな地味な装束の着脱にまで官能を見出すのがお約束なんて。見た目からは想像もつかぬ国民性だ。俄然、逃した《秘宝》に興味が湧いてきた。
「もっと知りたいな。王道のシチュエーションってどんな感じよ? あ、待って、当てるから。えーと、浴衣だろ、んで帯ほどくんだろ、ってことは」
架空のグラビアを心に描く。たっぷりした癖毛の男が、くっつけて敷かれた布団から手招きしていた。浴衣の胸元は絶妙な角度ではだけ、絞られた照明がみだりがわしい陰影を作り出している。
「わかった! こうだろ?」
九龍は窓際を離れ、適切な距離を保って敷かれていた二組の布団を合体させた。そこへ蛙飛びの要領で飛び込み、あだめいた表情を作って皆守を見上げる。
パーフェクト。だが皆守は、わずかに湿り気を帯びた前髪の下で気怠げに目を細めるのみだった。
「まるで遊び疲れた幼稚園児だな」
「なんだよ。どこがおかしいんだよ」
「いくらなんでも着崩れすぎだろ。顔つきも馬鹿っぽいしな」
「おい。顔は生まれつきだよ」
「あと、ポーズもな……。うつ伏せってのはいただけない。見返り美人って概念もあるにはあるが、お前にはレベルが高すぎる」
体をひっくり返され、顎の向きから何から修正された。浴衣も直されて帯をキュッとやられたかと思えば、また微妙に緩められる。
なんという高等テク。皆守も大人の男になったのだ。九龍は感慨に耽りつつ、しどけない姿のまま手足を投げ出した。あたかも布団の上へ押し倒されたかのようであった。
片目をつぶり、皆守を誘惑してみる。
「どうよ。……。……駄目か」
「どこに視線注いでんだよッ。こんな事務的な作業で興奮できるわけあるか」
「なんだと。じゃあどうすれば興奮すんだよ」
「何を怒ってんだよ」
「お前一人やる気にさせられないようじゃ、男の沽券に関わるだろ。いいから教えろよ」
「そう言われてもな。お前も口さえ利かなければ……」
ちょっとはマシなのに、と続きそうなのには立腹したが、九龍は我慢して黙り込んだ。傍らの彼を見上げる。教えられたとおりの角度で。
皆守の視線が、九龍の顔からその下へと移動した。襟元は彼の指導によってくつろげられている。喉仏、鎖骨、大胸筋のふくらみをたどり、ほんの一部だけ覗く腹筋の凹凸へ。
彼の呼吸の速度が変わる。
「……いや、お前、マジ? どんなヘキしてんだよ」
「うるせェなッ。だから、どこ見てんだよ。だいたい、そういうお前はどうなんだ」
ガッと頭を掴まれる。いじらしい照れ隠しだなあと九龍は思ったが、その感想を口にしたら最後、甚だ厄介な事態に陥ることは経験から知っている。だから絶対に言えない。
代わりに、自分にとってセクシーだと感じられるようなシチュエーションについて、真面目くさった顔で考えてみる。
「改めて聞かれると難しいな。まずは……、あーそうそう、何年か前に行ったストリップはドキドキしたなぁ。確かポートランドかどっかで、いい感じの音楽が爆音で流れててさ。焦らされまくったあげく最後には特大サービスが」
当時の九龍にとっては貴重かつ新鮮な体験であったのだが、皆守は「アホらしい」と切り捨て、自分のスマートフォンを出した。
「なんだよー。聞かれたから答えたんじゃん」
文句を言う九龍は放置して、皆守はスマートフォンへと視線を落とし、指先で操作を加えている。こうなってしまうと、いくら近くにいてもコミュニケーションは取りづらい。
九龍はむっとして姿勢を崩した。仰向けになったまま膝を立てると、乱れた浴衣の裾がさらに開く。彼の好みには合わないかもしれないが知ったことか。部屋の隅に寄せたテーブルの下の、何もない暗がりを恨みがましく睨みつけた。
そのテーブルへ、ことんと音を立ててスマートフォンが置かれる。流れ出すクラブミュージック。
「……え?」
照明が遮られ影を生む。シーツが体重を受けて沈み込む。九龍の腰を跨いで膝立ちになった皆守が、自らの帯に親指をかけていた。
たくし上げられた浴衣の袖から、引き締まった腕が姿を覗かせる。緻密で強靭な彼の肉体の一部。浴衣が肌を滑る音が、耳の内側のやわい皮膚を舐めた。
自分のものより触り慣れた舌が、きれいに並んだ歯の間を動く。
「で? 次はどうすれば興奮するって?」
九龍は呆然と答えた。
「あ……、次、いらなくなったわ」