火花
「あ、花火。買おう」
皆守がなんとなく眺めていたそれを、九龍はさっと取って会計まで済ませてしまった。
皆守が学生時代を過ごしたアパートにほど近い、とあるコンビニエンスストアでの出来事である。日本人なら盆暮れ正月は休むものだという主張が通って、このほど二人で帰国してきたのだった。
当初のプランはこうだ。まず実家に最低限顔を出す。それからアパートでゴロゴロする。帰省先まで九龍がついてきたのは完全に予想外だったが、予定の前半部分はなんとか無事に終わった。
後は慣れ親しんだワンルームへ戻り、怠惰という名の幸福を貪るだけだ。海外で過ごすことが増えた今でも部屋の契約を残しているのは、このためといっても過言ではない。
帰りがけに食べ物を調達しようと寄ったコンビニで、しかし九龍が買ったのは花火と酒のみだった。
「おい。どこでやるつもりだよ」
「どっかそこら辺で」
「ここは東京だぞ。今時、どこもかしこも禁止に決まってるだろ」
「えー。なんかいいとこないかな」
ないだろ、とぶつくさ言いながらも、つい携帯で調べてしまった。学部生時代にちゃらちゃらしたインカレサークルが花火のイベントを催していた記憶がある。おそらく、そう遠くないところに使える場所が存在するはずだ。
皆守の推測は合っていたようで、じきに花火の使用が許可されているエリアの情報を見つけた。
「河川敷……、乗り換えを入れて電車で二十分か」
行けない距離ではないが、わざわざ電車を使い、しかも乗り換えも必要というのが面倒なポイントだ。だがその辺りの神経のつくりが皆守とは違う九龍は、行く気満々で目を輝かせていた。
そんな顔をされると、願いを叶えてやらぬことがとんでもない悪行に思えてくる。だから仕方なく行くのだ、という建前で、皆守は駅へ向かった。
電車を一度乗り換えて小さな駅で降り、さらに十分ほど歩く。木陰からはじいじいと虫の声がして、夕陽の焼きついた空が紺色へ近づく。
川へ到着する頃には、とっぷりと日が暮れていた。他にも花火をしに来る人間がいるかと思いきや、暇そうな家族連れが二、三組戯れるのみだった。
九龍がバリバリと花火のパッケージを開け、今夜の一本目を吟味する。
「甲ちゃん、火貸して」
「ジッポーでつけるのか?」
噴き出した火花に手を焼かれそうだ。ローソクに点火するのとはわけが違う。渋る皆守だったが、九龍はその間にジッポーを借りて自分で火をつけてしまった。
「あっち! おー、はは、綺麗だな」
案の定焼かれたらしいが、悲鳴は歓声に取って代わられる。じゅわっと溢れ出した青白い火花が弧を描き、九龍の腕の軌道を追尾する。皆守が子どもの頃の手持ち花火より勢いが強く、派手だ。この分野でも日夜改良は続けられているのだろう。
皆守も煙草の火を分け合う要領で花火の先をくっつけた。ほどなくして、しゅわしゅわとピンク色の火花が散る。
「酒飲もう、酒」
気分がよくなってきたらしい九龍は、皆守が自動販売機で買ったミネラルウォーターのペットボトルに燃え殻を突っ込み、缶ビールのタブを起こした。
「はい、甲ちゃんも。乾杯」
皆守も片手で受け取り、ちびちびやることにした。コンビニで買ってから三十分以上経つせいか、ビールはぬるく苦味ばかりが膨らんでいる。だが不思議と不味くは感じなかった。
「火ちょうだい。……ありがと」
「おい、花火は人に向けるなって教わっ……て、なさそうだな。お前は」
「銃口を敵以外に向けるなってのは教わったけどね」
物騒なことを言いながら、九龍が早くも一本目を飲み干す。
暗闇の奥で火の粉が揺れ動き、幼児の笑い声が響く。あちらも盛り上がっているようだ。向こうはさすがに酒まで持ち込んではいないだろうが。
こちらの二人は肉体こそすっかり大人で、そろそろおじさんと呼ばれる心の準備をする年齢だけれど、一般社会から外れたところで生きているせいか、良くも悪くも歳を取った感覚が薄い。皆守の実家を訪れた九龍が意外にもちゃんと挨拶をしたので、密かに驚愕したほどだった。
数時間前まで好青年風だった《宝探し屋》は、くわぁとあくびをしながら新たな花火に着火している。
「眠い……」
「なんだ、もう酔ったのか?」
「いや、甲ちゃんの実家に行くんで緊張してて。その疲れ」
「緊張?」
まさかこいつにもそんな回路が備わっていたなんて、と皆守は衝撃を受けた。付き合いが長くても知らないことはあるものだ。
「なー、疲れたから癒しが欲しい」
九龍が適当に絡んでくる。いつもなら軽くあしらうところだが、皆守は考えた。
緊張というのは多くの場合、失敗できないシチュエーションでするものであり。
常識をゴミの日に捨ててきたかのような男が、今日は珍しく襟つきのこざっぱりした服に身を包んでいるのであり。
皆守の身内と話すときも、誰だお前と問いかけたくなるくらいにはしおらしくしていたのであり。
なぜ九龍がそうなったのか、さすがの皆守も承知していた。もう、自分に向けられる思いを取りこぼすほど子どもでもない。
だからこう答えた。
「帰ったらな」
「え! マジ?」
自分から要求してきたくせに、九龍がぶんぶん花火を振り回して驚きを表現する。
「そうと決まれば早く花火終わらせなきゃ! いや、待てよ。全部まとめて火ぃつけたら楽しそうだな」
「思いつきで火事を起こすな」
「でもさ」
「だから、人に向けるなって言ってるだろ。なんだよ」
「甲ちゃん避けられるじゃん」
「だからってな。おい、それは打ち上げ花火……」
車のライトを反射してきらめく水面に、二人の声がわーんと吸い込まれてゆく。
大人になりきれない男たちは、今年もこうして夏の夜を過ごしていた。