あだ名で呼んでって言ってるじゃん!
葉佩九龍は燃えていた。
きっかけは、今朝勃発したとある事件であった。
「おっはよーッ、九チャン」
「おはよう、やっちー」
教室へ入ると、八千穂が元気よく手を振ってくれる。
九龍も応えただけなのに、眠いだのだるいだのぼやいていた皆守は、ぽかんと口を開けて足を止めた。
「……なんだ、そりゃ」
「皆守クンもおはよ~。どしたの、そんなトコで」
早く入りなよ、と手招きされ、皆守が胡乱な表情で着席する。
「お前ら、いつの間にそんな名前で呼び合うようになったんだ」
「えへへッ。昨日から!」
「タイゾーちゃんとやっちーはニックネームで呼ぶことにしたんた」
ね~、と声を合わせる二人。口をへの字にした皆守とも語らうべく、九龍は彼の机に腰かけようと試みたが、「邪魔だ」の一言で追い払われてしまった。近くの生徒が椅子を貸してくれて、事なきを得る。日本人は親切だ。
皆守がアロマパイプに火をつける。九龍にとっても、硝煙の次に慣れ親しんだ香りが立ち昇った。
「……つまり、昨日のバディはその二人だったんだな」
「お、さすがの名推理」
「よッ、天香のシャーロック・ホームズ!」
「それはもういい」
「え~ッ、似合ってたのにィ。もう飽きちゃったの?」
「なあ、俺から頼みがあるんだけどさ、ホームズ君」
「だから、もういいって言ってるだろ。……なんだよ、九龍」
九龍は、目をらんらんと光らせて皆守の肩を掴む。
「甲太郎も俺のこと九ちゃんって呼んでくれない?」
予想に反し、二人の間には沈黙が流れた。クラスメイトたちの話し声が鮮明に聞こえてくる。九龍のシミュレーションでは、二つ返事でOKしてもらえるはずだったのに。
皆守はさくっと判決を言い渡した。
「断る」
「なんで!」
「皆守クン……。照れなくてもいいのに」
「見当外れな解釈をするなッ。……ほら、ホームルームが始まるぞ。自分の席に帰れ、二人とも」
「なんでー……」
九龍は椅子にしがみついて嘆き悲しんだが、本来の持ち主が戻ってきたため、礼を言って場所を空けざるを得なかった。
チャイムとともに雛川が現れ、美しい声で挨拶をする。連絡事項に耳を傾けながらも、九龍は己の奥底に眠る欲が頭をもたげ出したのを感じていた。
呼ばぬなら、呼ばせてみせよう、九ちゃんと。
日本史で習ったような記憶が朧げにあるフレーズになぞらえて、そう考えた。元がどんな言葉であったかは忘れた。赤点救済のサービス問題として試験に出すからな、と予告されていたし、ならば諳んじられない時点で追試は決まったようなものだが、今この局面においては些事に過ぎない。
あだ名で呼んでもらいたい九龍と、拒否する皆守。晩秋の朝、激闘の火蓋が切って落とされた。
◇
難敵と一戦交えるとき、《宝》求むる者はどう動くべきか。
《ロゼッタ協会》のハンター研修では、種々の戦闘技術を叩き込まれる。巨大な敵、呪われた敵、くにゃくにゃの敵やぬるぬるの敵、どんな存在が立ちはだかったとしても、無事《秘宝》に到達できるように。
九龍もひととおり会得はしたが、《宝探し屋》として場数を踏むにつれ、己が性根を悟り始めていた。策を弄するのは向いていない。トライアンドエラーを重ねながら現場で修正してゆくほうが合っている。
というわけで、まずは真っ向勝負を挑んでみた。行き先は夜の男子寮である。
「甲太郎、お疲れ。今夜もよろしく。なあ、九ちゃんって……」
「俺は呼ばないぞ」
轟沈。全文を口にする隙さえなかった。
打ちひしがれる九龍を「風が吹き込んで寒い」と招き入れ、皆守が部屋のドアを閉める。あらかじめ依頼のメールを送ってあったので、バディとして出撃する準備は整っているように見えた。こちらはてんで駄目だ。つい数秒前まではばっちりだったのに。
部屋の隅で膝を抱える九龍に、皆守が言う。
「ニックネームってのは、親密な関係の人間が呼び合うものだろ? 無理に呼ばせても意味がないと思うがな」
「だから、こうしてお願いしてるんじゃん」
「だから、こうして断ってるんだろ」
『攻撃を受けています』
「……なんだ?」
「あっごめん、H.A.N.Tの誤作動が。最近ちょっと音声アシストの調子が悪くて。……なあ甲太郎、どうしても嫌?」
「ふん……言っただろ。親密な人間が呼び合うものだと」
「てことは、甲太郎的には俺はまだ親密ではないと……」
『ハンターの死亡を確認』
「……それ、一度ちゃんとメンテしたほうがいいんじゃないか」
「う、うん、そうする……」
思わぬところで致命傷を負ったが、これで判明した。皆守に正攻法は通用しない。そして、あだ名で呼んでもらうためには、九龍のことをもっと好きになってもらわなければならない。
九龍はさらに燃えた。
アサルトベストのポケットから、カレーパンをずるんと引っ張り出す。皆守は質量を無視した所業に気持ち悪そうな顔をしていたが、鼻先にそれを突き出され、鋭く息を呑んだ。
「九龍……?」
「あげる」
「いいのかよ。今夜のクエストに使うんじゃないのか」
「クエストはまた次回達成すればいい。カレーパンには……今日っていう賞味期限があるからさ」
「お前……。その気持ち、無下にはしないぜ」
皆守はしっかりとカレーパンを受け取った。好感度アップの基本、プレゼント作戦。どうやら成功だ。九龍は心の中でガッツポーズをする。
好物を贈られて嫌な人はいない。天邪鬼の皆守といえど、例外ではなさそうだ。といっても、同じ品物ばかり渡していては、こちらの下心を気取られてしまう。バリエーションを増やそう。九龍はどうでもいいところでは悪知恵の働く男であった。
さて、世の中には「慌てる乞食は貰いが少ない」という言葉がある。欲をかいて急いでは、かえって損をする。誰もが身に覚えのある戒めだ。
九龍はこのとき慌てに慌てていた。ゆえに、ポケットの中からさらにプレゼントできそうなものを見つけ、よく検討もせず彼に渡してしまった。
「これもあげる。レトルトカレー」
「……ほう」
「レトルトとは思えない味だよ。甲太郎も気に入ると思う」
皆守の反応が思わしくなかったので、九龍は焦ってよけいな言葉を継ぎ足した。深く暗い墓穴が足下で口を開ける。
皆守は、彼にしては珍しくはっきりとした笑みを浮かべた。
「一つ教えてやるがな、九龍」
「え?」
容赦ない速さで喉笛を掴まれた。スタンドカラーが肌に食い込む。
「ぐえ」
「これは俺が買って、部屋に置いていたのとまったく同じものだ。最近、届いた数とストックの数が合わないことが増えてな。さあ、思い出せ、九龍。お前、これをどこで手に入れた?」
「あ、あぇー、そのぉー」
「いいか? 日本は法治国家だ。どんなトンデモ稼業の人間であろうと、窃盗は立派な犯罪。相応の罰を受けることになる。よく覚えておくんだな」
「あ、あおー、あおー」
皆守の説教は、九龍が目を回して白旗を掲げるまで続いた。
もちろん好感度は著しく下がった。
◇
危うくあだ名どころか「葉佩」と呼ばれるようになりかけたが、矜持をなげうった必死の泣き落としで回避した。
レトルトカレーの一件により、その日の探索開始は遅れた。翌日も授業があるため、バディの負担を考慮して早めに切り上げたものの、普段より三十分ほど遅い解散となった。
別れ際に「あー、眠ィ」とあくびを繰り返していた皆守は、その分就寝時刻が後ろにずれたのか、あくる日の一時限目が始まっても姿を現さなかった。
このところ出席率がよかったのに、悪いことをした。九龍は心から反省する。なお、彼の部屋からレトルトカレーを入手した件については、仕事の一環なので後悔していない。
授業の担当が優しい雛川だからというのもあってか、皆守は二時限目の開始には間に合うよう登校してきた。眠たげではあるが、いつもどおり席に着く。
九龍は、ノートを片手におずおずと近寄った。
「おはよう、甲太郎。あのさ、一時限目の化学でやったところ、次回小テストだって」
「何? ちッ、めんどくせェな」
「よかったらノート写す? あの先生、小テストから定期試験の問題作るらしいし」
「ああ……まあ、一応やっておくか。悪いな、少し借りる」
「どうぞどうぞ」
ノートを手渡しつつも、九龍は期待に胸を膨らませた。
「……なんだよ。その瞳は」
「九ちゃんって呼ぶ気に」
「なってない」
「まだか」
九龍は肩を落としたが、落ち込むにはまだ早い。友情は一日にして成らず。こうして小さな思いやりを重ねていけば、いつの日かきっと彼の心を掴むことができるはずだ。塵も積もれば山となるというではないか。
ノートをぱらぱらめくっていた皆守が、「おい」と九龍の肩をつついた。
「なんて書いてあるんだ、これは」
「Cu(OH)2」
「……こっちは?」
「『青春の傷は白紙に』」
「返す」
ついさっき貸したばかりのノートが、もう手元へ戻ってきた。
「なんだよ、遠慮すんなよ。俺と甲太郎の仲じゃないか」
「仲がよかろうが悪かろうが、読めないものは読めないんだよ。もっと丁寧に書け」
九龍は反論しようと口を開けたものの、ノートの状態は皆守の指摘どおりであったので、何も言えずにまた閉じた。数字と英字もひどい有様だが、特に漢字は目も当てられない。もともとうろ覚えの字がごちゃごちゃと書きつけられ、吹き寄せられた綿埃のようになっている。
小さな親切ちりつも作戦も失敗だ。九龍は途方に暮れた。相手の好意を意図的に勝ち取るのは、なんと困難なことなのだろう。
こういうときは胸に手を当て、先輩ハンターの教えを思い返すに限る。教官は言っていた。迷ったらまず来たほうへ引き返すこと。落ち着いて自分を省みれば、自然に道は開ける。
もし九龍が皆守の立場であったなら、どんな相手を好ましいと思うだろう。やはり人情として、素直に好意を示す人間には採点が甘くなるものではないか。
九龍はカッと目を見開き、皆守の手を握った。唐突な動作にクラスメイトたちの視線が注がれる。
「甲太郎」
「今度はなんだ」
「好きだ!」
「は?」
キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴って、皆守の反駁を掻き消した。
◇
九龍は、もうどうすればよいかわからなかった。
真正面からお願いしても、プレゼントをあげても、世話を焼いても、好意を伝えても駄目。お手上げだ。難攻不落の皆守城だ。門扉は固く閉ざされ、ねずみ返しと有刺鉄線がそこかしこに設置されている。これ以上は攻められない。どんな環境でも知恵と勇気を武器に《秘宝》を探し出す《宝探し屋》としてはあるまじきことに、士気を根こそぎ打ち砕かれていた。
放課後の教室。生徒たちが和気藹々と下校する中、九龍は自分の机に突っ伏していた。顔が真っ平らになりそうだ。
「おい、九龍。いつまでそうしてるつもりだ」
帰り支度を済ませた皆守が、他人事のように言う。九龍は頬をべったり机につけたまま彼を見上げた。
「この遺跡、どうやったら攻略できるんだ……」
「何をブツブツ言ってるんだか知らないが、俺はもう帰るぞ」
「あっ、俺も一緒に帰る」
机の中の教科書を鞄に放り込む間、彼は文句も言わず待っていてくれた。斜に構えたポーズは取っているが、根っこのところは面倒見のいい男である。
二人揃って校舎を出る。空は滴りそうなほどのオレンジ色で満たされ、皆守がくわえたアロマパイプをも染め上げていた。冬の足音が近づくにつれ、日は短くなる一方だ。
「やっぱり、もう少し時間がかかりそうだなあ」
「何がだ?」
「甲太郎にニックネームで呼んでもらうの」
「諦めたんじゃなかったのか」
「すぐ呼んでもらうのは諦めた。いつか呼んでもらうのは、まだ諦めてない」
「しぶとい奴だな。なんだって、そこまであだ名にこだわるんだ」
「だってさ、嬉しかったんだよ。やっちーとタイゾーちゃんが呼んでくれて」
呼び方がどうであれ、それによって関係性までもが規定されるわけではない。だが、確かに九龍は嬉しいと思った。
潜入先で偶然出会った人々。一時的にすれ違い、依頼を達成すれば別れる相手。それだけではない、仲間といえる存在になったのだと、声に出して認めてもらえたような気がして。
そんな高揚した気分をふと引き戻すのは、ファントムに沸く級友を冷ややかに見つめ、死を恐れたことはないのかと問うてくる一対の瞳であった。
その奥に眠るものを起こそうというわけではない。ただ、九龍が皆にもらった喜びは彼にも分け与えたい。
大切な友人だからこそ、そう思う。
「なあ、お前どうしたら俺のこと好きになってくれる?」
「そういうことを真面目なツラで言わなくなったらな」
「顔? 顔の問題?」
九龍はすぐさま頬をリフトアップしようと手で押さえた。
それを見ていた皆守は、根負けしたように苦笑する。
「……俺はお前と違って、くだらないことに固執するほど暇じゃないんだ。寝たりスパイスの研究をしたりするのに忙しいからな」
「うん」
「いちいち断って時間を浪費するなら、妥協しちまったほうが早い。そうは思わないか? 九ちゃん」
「ほ……」
九龍は、自分の顔からぱっと手を離す。強制的に持ち上げられていた頬の肉が重力に引かれて落ちた。
皆守が目を伏せる。
「今更……線を引こうとしたところで、もう遅いか」
「こっ、甲太郎」
「なんだ。人には求めておいて、お前は呼ばないのかよ」
「え」
九龍が立ち止まったことには気づいていそうなのに、皆守はすたすた歩いていってしまう。振り返りもしないのは、追いかけてくるとわかっているからだろう。
九龍は走り出す。一見わかりにくい意思表示でも、親友のものなら理解できる。
大声で叫んだ。
「甲ちゃん!」
歩く速度を緩めた皆守に追いつく。早く慣れたくて「甲ちゃん」と連呼していたら、「うるさいぞ、九ちゃん」と鞄でどつかれた。
その日皆守が温めて出してくれたレトルトカレーは、やっぱりおいしかった。