こんな夜に限って

 深夜三時だ。
 そんな時間に電話をかけてくるほうもかけてくるほうだが、出るほうも大概だと思う。しかし、完全に目が覚めるよりも先にスマートフォンを掴んでいたのだから仕方ない。
「……もしもし」
「えっ」
 電話の向こうの葉佩九龍は、なぜか皆守の声を聞いて絶句した。
 その間に、ベッドの上へ起き上がって部屋の明かりをつける。ついさっきまで夢を映していた両眼に、蛍光灯の光は痛い。
「間違い電話か? なら切るぞ」
「あっ、間違ってない」
「じゃあなんの用だ。言っとくが、こっちは夜中の三時だぞ」
「そう……だよな」
「知っててかけてきたのか」
「俺の携帯、東京の現地時間も表示するようにしてあるから」
 誰を思ってそう設定したのかを考えれば、あまり強く言う気にはなれなかった。皆守はあくびをして、スマートフォンをハンズフリー通話に切り替える。冷蔵庫の作動音がかすかに聞こえるだけの狭い部屋に、タイムラグを伴って九龍の声が響いた。
「悪かったよ。ちょっと声が聞きたくなって」
「……お前、今どこにいる?」
「鉱山出たとこだけど。チリのスウェル」
「ふん……ほとんど地球の裏側か。どうりで音が悪いわけだな。そんなに聞きたいなら、生の声を聞かせてやろうか」
 皆守は、ちらりと部屋の片隅に目をやった。
 そこには小さなスーツケースが置かれている。留め具を開ければ、中にあるのはパスポートと、ちょっとした旅支度だった。海外出張の予定は特にないが、突然何かの理由・・・・・で出かけたくなったときのために準備をしてある。
 ベッドを降りようとする衣擦れの音を拾ったのだろう、九龍は狼狽した様子で問うてくる。
「まさか……まさかだけど、来てくれようとしてる?」
「お前にしては読みが鋭いな」
「マジで? いやいや、どうしちゃったんだよ甲ちゃん。熱でもあるの?」
 一瞬喜色を覗かせた九龍は、もっともらしくこちらの心配などしてきた。
「お前がこんな時間に電話してくるからだろ」
「だって、出るからさぁ」
「だから、かけてくるから……まァいい。で? お前のほうこそどうしたんだよ」
「あー、うん。寒いんだよ、こっち」
「寒い? ……ああ、南半球だから日本とは季節が逆なのか」
「そう。んで、あったまりたいなぁと思って」
「……電話で暖まるか?」
 疑わしげに尋ねたところ、「わりと」と恥じらったような声が返ってきた。ならば何も言うまい。平たい喉を震わせるスマートフォンはテーブルに置いて、パソコンを立ち上げる。動画サイトに飛び、目当ての動画を見つけて、再生ボタンを押した。
「……聞こえたか?」
「聞こえたけど……何? カポーンって音がした」
「お前、ししおどしって知ってるか」
「知らない」
 電話の向こうからは本気の困惑が伝わってきたので、皆守はとりあえずリピート再生される『カポーン』を停止した。
「だいたいの日本人は、この音を聴くと温泉を連想するようになってるんだよ」
「へー。なんで?」
「……」
 なんでだろう。
「まあでも、温泉かぁ。いいな、行ってみたい」
「そっちにはないのか」
「これだけ山が深けりゃありそうだけど、日本みたいな感じじゃないだろ、たぶん。それに、行くなら甲ちゃんと一緒がいい」
 皆守はスマートフォンの通話画面を一旦収納し、スケジュールアプリに切り替えた。仕事と私用を合算した予定表が表示される。
「次の休みに行くか」
「マジ? 行きたい……いや、待てよ。日本の温泉って水着着用?」
「そういうところもあるだろうが、基本は裸じゃないのか」
「えー、うーん、俺はいいけど甲太郎の裸を人目に晒すのはちょっと抵抗あるな」
「……個室にする。露天風呂がついてる部屋にすればいい。どうだ?」
「行く!」
 現金な声の跳ね上がり方に、九龍には聞こえないようにして苦笑する。くたびれた成人男性の体なんか誰が見るんだと鼻で笑うのは簡単だが、今回は見逃してやろう。
「予約しておくから、早く帰ってこいよ」
「そうする」
 記憶の中の笑顔と容易に結びつく声で九龍は言い、ふいにトーンを落とした。
「電話、出てくれてありがとな」
「寝ぼけてたまたま通話ボタンを押しちまったからな」
「おかげさまで、寒くなくなった」
 皆守が漏らした笑い声は、今度こそ向こうに聞こえてしまったようだった。
「次に帰ってくるときは、ゆっくり暖まっていくんだな」
「うん。もう少しだから、がんばるよ」
 おやすみ、と彼が最後に発した声は、まるで別の言葉にも聞こえたが、できることなら直接聞きたかったので、皆守は布団を被り、今日のところは眠りにつくことにした。
 どうか九龍の耳にも、同じ言葉が届いていますように。

 大好きだよ。

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