I love youなら聴こえる

 皆守がいなくなった。
 体の芯まで冷え込むような、初冬のことだった。

「――既読つかない、メールは返ってこない、電話も繋がらない、家に帰ってきた形跡なし」
「ご家族は?」
「連絡先知らない。職場の近くで張ってれば、せめて出勤してるかどうかくらいわかると思ったけど……東京のラッシュ舐めてた。人の目じゃとても探せないな」
「警察に連絡は」
「……すべきだと思う? どっちの案件かな、これ」
 スマートフォン越しの夕薙に状況を語りながら、九龍は声を低くした。
 一般的な事件や事故に巻き込まれているなら、警察の出番。そうでないなら、通報したところで意味はない。むしろ、皆守が姿を消した理由によっては、握り潰されるリスクもないとはいえなかった。
 夕薙に相談した理由は、表と裏、どちらの世界にも身を置いているからだ。彼は《宝探し屋》として《ロゼッタ協会》に所属しながら、貧困や疫病に喘ぐ人々を救おうと奮闘していた。その周りには志に賛同した者が集い、いつ連絡しても忙しそうだった。
 そんな夕薙だが、九龍に対しては特別扱いで時間を作ってくれる。嬉しい反面心苦しくもあり、あまり余計なことで手を煩わせぬよう気をつけてはいたものの、今回ばかりはためらう余裕がなかった。
 皆守と連絡が取れなくなって、今日で三日だ。まめなタイプとはいいがたいけれど、理由もなく誰かを無視するような男ではない。
「さっき、俺のほうからもメールを送ってみたが、返事はまだ来ないな。事故の可能性を否定しきれない以上、警察に届けておくことが悪いとは思わないよ」
「ん……、明日の朝行ってみる。成人男性の失踪って、どれくらい重きを置いてもらえるもんかな」
「そこは、信じて任せるしかないな」
 夕薙の快活さが救いだった。がらんとしたウィークリーマンションの片隅で、九龍は膝を抱えて丸くなる。一人でいると、「もしも」が浮かんでは消えて手のつけようがない。
「問題は、甲太郎のいなくなった理由が、警察の守備範囲外だった場合だ。そちらについて何か心当たりは?」
「ない……とはいえない」
「可能性が低くても構わない。とりあえず、挙げてみてくれ」
 夕薙に促され、九龍は改めて数日前のことを思い返した。

       ◇

「へっへっへっへ。ふへへへへ」
 その晩、九龍はにやにや笑いを止められずにいた。
 皆守には心底呆れられたが、とめどなく溢れてくるのだから致し方ない。
 勝手知ったる皆守の部屋で、薄っぺらい紙切れを抱き締めてゴロゴロ転がる。先ほどその紙に署名を済ませた張本人は、さっさと風呂場へ向かってしまったので、ここにはいない。壁伝いにシャワーの水音が漏れ聞こえてくる。
 この書類は、専従のバディとして九龍に帯同するという契約書だった。
 今まで皆守は、ある企業で研究職につきながら、国内で九龍が探索をするときに限り、個人的にサポートしてくれていた。この契約書を交わしたことにより、正式に協会の承認を受け、海外まで同行することが可能になる。
 契約に伴いこの春で職場は辞するものの、研究のほうも続けるとのことだ。現地調査を兼ねて、皆守が興味を持ちそうな地域の依頼を受けるのもいいだろう。夢は膨らむ一方だった。
「まだやってるのか、お前は」
 風呂上がりの皆守が、冷たい水の入ったコップを首筋にくっつけてくる。九龍はギャアと叫んで丸まったが、契約書だけは皺が寄らないよう死守した。
「紙切れ一枚がそんなに大事か?」
「俺もどうでもいいと思ってたんだけど、いざサインしてもらったら喜びがじわじわと」
「そんなもんか。まァ、喜ぶのはいいが、なくさないようにちゃんとしまっとけよ」
 皆守は苦笑いして、ベッドの上にいた九龍の頭をくしゃっと撫で、歯磨きをしに洗面所へ消えていった。
 九龍は撫でられたところを無意識に手でなぞりながら、大人しく起き上がって言うとおりにする。契約書をクリアファイルに入れて、テーブルへ置いた。これならなくさない。
 世界中でもっとも落ち着く場所にいて、夕飯はおいしくて、外は寒いが部屋の中は暖かい。契約書に直筆のサインももらった。今日は最高の一日だ。テーブルの上に腕を預け、そこに顎を乗せて、九龍はいつまでもクリアファイルを眺めていた。
「そういえば、九ちゃん。今度の土曜日なんだがな」
「ん? どっか行く?」
 皆守が洗面所から戻ってきて、九龍はぱっと顔を上げた。
「いや、野暮用で出かけるんで、好きに過ごしててくれ」
「なんだ。いないのか」
 九龍はまた顔を伏せた。皆守が隣に腰を下ろしながら、軽い口調で言う。
「悪いな。墓参りで天香に行ってくる」
 誰の、と聞くまでもない。その人は皆守の心の深くて柔らかいところに住んでいて、彼の土台を作っている。写真を見る限りは優しそうな瞳が印象的で、そしてとても若かった。教師という夢を叶えて間もなく亡くなったのだろう。二人はとっくに彼女の年齢を越えてしまった。
「……行ってらっしゃい。阿門によろしく」
「ああ、伝えておく。諸々提出するものがあるんで、帰りがけに日本支部へ寄るつもりだ。これもついでに俺が出してこよう」
 皆守の手が、いとも軽そうにクリアファイルを取り上げる。
「えー。二人で出そうぜ」
「婚姻届かよ」
 皆守に一笑され、「……似たようなもんじゃん」という呟きは九龍の口の中で溶けてしまった。わざわざ出向くほどのものでないことは確かなので、任せることにする。日本人のハンターはただでさえ少ないのに、ランキングの上位にいるものだから、年々大げさな歓待を受けるようになって居心地が悪かった。
 相棒が俯いたことに首を傾げながらも、皆守はテレビ台に置いてあった封筒を手に取る。開封済みで、中からは文字だらけの書類が出てきた。九龍は思わず目をしぱしぱさせる。
「なに?」
「この部屋の契約更新が近くてな。正式には来年の三月だが、次の入居者を探す都合もあるんで、継続して住む意向かどうかをまず先に知らせてほしいとさ」
「はあ」
「お前とどこかに住むなら引き払ってもいいかと思ってるが、どうする?」
「俺と住」
 む、と最後まで言い切ることもできず、九龍は口を開けた。思ってもみなかったことだった。
「そんなに驚くことでもないだろ。お前についていくなら、日本に家を持っておく利点は少なくなるからな」
「そっ、だね」
「まあ、いちいちこの量の本を移動させるのも面倒だし、倉庫代わりに借りておいてもいいが。どう思う?」
「どう……って……」
 九龍は懸命に、自分の感情を表す言葉を探そうとした。
「……甲ちゃんがそこまで具体的に考えてくれてるとは思わなかった」
「今さら何言ってんだ。じゃなきゃ、社会保険と福利厚生を棒に振ったりするかよ」
「ひょっとして、俺って相当愛されてる?」
 皆守が、なんだこいつ、とばかりに眉をひそめる。
「まさかとは思うが、今気づいたのか?」
「いや、気づいてはいたっつーか、夢かと思って気づかぬふりをしてたっつーか、痛っ蹴んなよ嘘ありがとー好き好き」
 皆守は言い方に誠意がないとお怒りだったが、九龍が抱き締めて頭を撫でると、むくれながらも矛先を収めてくれた。
 腕の中からずぼっと皆守の頭が抜けて、代わりに抱き寄せられる。
 愛してるとかお前と生きていきたいとか、口に出してくれれば九龍にもすぐわかるのに。
 でも、回された腕はじわりと温かく、持ち主本人よりも雄弁だ。
「……天香行くとき、気をつけてな。変な奴についていかないように」
「アホか。お前じゃあるまいし」
「あと……、これから色んなとこ行って、二人とも気に入る場所があったら、お試しでそこに住んでみるのはどうでしょう」
 同意は、低い笑い声とキスで返ってきた。

       ◇

 墓参りにはそう時間がかからなかった。
 今でも己の行いを悔やんではいるが、墓の前で懺悔し続けるくらいなら、せめて誰かを守ることで償おうと思えるようになっていた。皆守が彼女にされたことを、違う人間に返す。その連鎖を重ねていけば、いつかは自分を許せる日が来るかもしれない。
 阿門には事前に連絡したものの、予定が合わず直接の対面は果たせなかった。あのころ、學園の闇を煮詰めたような黒いコートを纏い、ただ使命のために生きていた男は、人の上に立ち生き生きと采配を振るっている。
 彼の執事に挨拶をして、學園を出た。まだ太陽は空高く、カラリと乾いた風が吹いている。皆守はコートの襟を立て、早足で《ロゼッタ協会》日本支部へ向かった。
 必要な書類を渡し、記念品だというちゃちな拳銃を受け取って、さっさと建物を出る。あの契約書は皆守の将来を大きく変えるものには違いないが、紙は紙だ。さほどの感傷はない。サインしたときに九龍が浮かれ倒していたことは、自分でも意外なほど嬉しく思ったものの。
「――すみません、皆守さんッ。待ってください」
 ビルの自動ドアをくぐったところで名を呼ばれ、皆守は振り返る。
 《ロゼッタ協会》のエンブレムがプリントされたTシャツに、ぺらぺらのパーカーを羽織った男が、息を切らして追いかけてきた。痩せぎすで、目つきばかりが異様に鋭い。年齢は皆守よりもいくつか下だろうか。
「ああ、よかった。いらっしゃると思ってお待ちしてたんですけど、すぐお帰りになったって聞いて」
「俺を待っていた?」
「そうなんです。私、清掃部の者でして。いわゆるクリーニングの担当部門です」
「いわゆる……と言われてもな」
「あっ、ご存じないですか?」
「知らないし、待たれるような心当たりも特にないな」
 外部の人間に聞かれるとまずいので、と建物の中へ手招きされる。皆守の背後で自動ドアが閉じ、車の騒音が消えて静かになった。
「私どもの間では有名人なんですよ、皆守さん。葉佩さんに腕のいいバディがついたって」
「へェ。で、用件は?」
「立ち話もなんですから、会議室へどうぞ。……あれ、暗いですね、嫌ですね。明かりは……」
 手近な会議室へ案内され、ドアから一番近い席に座る。四人も入ればいっぱいになる、狭い部屋だった。
 清掃員の男と、テーブルを挟んで向かい合う。絵に描いたような三白眼だ。
「そもそも皆守さんって、清掃部がどんな部署かはご存じですか?」
「いや。悪いな」
「花形の《宝探し屋》に比べるとマイナーですから、無理もないですよ。うちの仕事は、その名のとおり清掃です。ハンターが《秘宝》を入手した後、遺跡が荒れちゃってることもあるんで、それを元どおり綺麗にするためのセクションです」
 清掃員の言葉に、かつて高校の地下にあった遺跡を思い出す。九龍が遠慮なく爆薬で穴を開けたため、壁はところどころ大きくくり抜かれていた。結局あの場所は崩壊してしまったが、そのまま残存するものも多いのだろう。
「で、単刀直入に言いますが、皆守さん、うちに入りませんか? 清掃にかかる時間が長ければ長いほど、汚したハンターの査定はマイナスになるんです。バディが清掃員を兼任していれば、《秘宝》を入手したあとすぐクリーニングできます」
「なるほどな」
 皆守の反応がそう悪くないことに手応えを感じてか、清掃員が身を乗り出す。
「血とか体液って、時間が経てば経つほど落とすのが大変なんですよ」
「……血?」
「ええ、血」
「なんの血だ?」
「そりゃ、妖とか魔とか、人とか。あるでしょう、交戦するとき」
「なるほど、そういう『清掃』もするのか」
「ええ。本当は、そもそも汚さないのが一番なんですけどね。実は、そのためにこちらも試行錯誤中なんです。葉佩さんにも何回もお願いしてるんですけど、断られちゃって」
「お願い? 何をだ」
「頭と体を輪切りにして、中身を見せてくださいって」
 話があらぬ方向へ飛躍した。訪れた沈黙に、清掃員は大慌てで手を振る。
「あっ、CTとかMRIで、ってことですよ」
「見てどうする」
「その、本当はDNAを分けてほしいんですよ。でも、妥協に妥協を重ねて輪切りなんですが」
「――DNA?」
「はい、強靭なハンターのDNAをもとにして、一瞬で敵の命を奪えるくらい強い《宝探し屋》を生み出せたらなって。たとえば、新人や我々バックアップ部門の遺伝子を改変するとか。そうすれば、クリーニングはもっと容易になるし、全体の力の底上げになりますから、協会としても悪い話じゃない」
 皆守は眉をひそめる。清掃員は構うそぶりもなく、ますます熱を上げた。
「葉佩さんには帰国のたびにご提案してるんですけど、まだ色よいお返事をいただけてなくて。ご協力くださる日が、いつか来るといいんですが」
 うすら寒い既視感に、背筋がざわざわする。天御子の傲慢さが招いた悲劇は、忘れようにも忘れられない。九龍とて同じだから、この男の提案とやらを拒否したのだろう。
 表情をなくす皆守とは対照的に、清掃員の目はぎらぎらと燃え、野心が溢れんばかりだった。この年代の青年としては、おかしいことではない。道徳に反していることに目を瞑れば。
 昔取った杵柄でたくさん知っている、人を撥ねつける言葉のうちの一つをぶつけようとしたが、皆守はすんでのところで思いとどまる。
 この男は「『まだ』色よいお返事をいただけていない」と言った。九龍は未だに狙われている。彼の遺伝子が。
「まあ、葉佩さんには引き続き提案していこうと思ってます。それで皆守さん、どうですか? うちに来ませんか。新しい後輩ができたら嬉しいです。みんないなくなっちゃいましたから」
 くるりと表情を変えて、清掃員が微笑む。皆守が九龍と親しいことを知って、籠絡するための駒にしようという魂胆かもしれない、とは思った。
 皆守は、懐からアロマパイプとジッポーを取り出す。ここしばらくはほとんど持ち歩くだけのお守りと化していたから、カートリッジに火をつけるのは久しぶりだった。
 かちっと音がして小さな炎が立ち上がり、相対的に机の裏の闇が濃くなる。
 九龍が狙われていると知って、見過ごすわけにはいかない。
「――興味深いな。教えてもらおうか」
 幸い、嘘をつくのには慣れていた。

       ◇

「そういえばさ、最後に一つだけ連絡が来てたんだよ」
「甲太郎からか?」
 夕薙に問われ、九龍は首を縦に振る。直後、先方には見えないと気づいて「うん」と答えた。
 スマートフォンにイヤホンを接続し、夕薙と通話しながら夜の街を歩く。駅から離れるにつれて商店の数が減り、点在する街灯のみが視界を広げていた。
「『帰りは遅くなる。心配するな』ってさ。ただ、それがどういう意味なのか」
「単なる私用で遅くなるつもりだったが、メッセージを送った後、なんらかの事情で帰宅できなくなった?」
「もしくは、しばらく帰らないことを見越してそう言ってきたのかも」
「その場合は、自分の意志で消息を絶ったことになるな」
 夕薙も九龍と同様の仮説に行き着いた。そうなると、馬鹿げていると知りつつも、皆守が消えたいと考えた理由を探してしまう。
「やっぱマリッジブルーってやつ? バディ契約を喜びすぎたのが重かったかな」
「自分との契約を喜ばれて、嫌な気持ちになるとは考えにくいが」
「でも、浮かれてたら皿を落としちゃって、割れはしなかったんだけど、ふちのところがちょびっと欠けたんだよ。あれを怒って家出したのかな……まさかカレー皿だったのかな。どう見ても豆皿だと思ったけど……」
 ちょうど、カレーのつけ合わせを盛るのにぴったりの小皿だった。皆守はまったく気にしていないように見えたが、それは九龍の解釈であり、強がりだった可能性も皆無とはいえない。
「それくらいで家出するような、かわいげのある男ではないと思うがな。いつもの自信はどこへ行ったんだ、九龍。契約書は提出されていたんだろう?」
「ああ。大和にアドバイスもらってから千貫さんにも確認取ったんだけど、あいつは天香へ行って、その後日本支部で書類を出した。ここまでは間違いない。会った人がいる」
「日本支部の連中は何か知らないのか」
「それが……」
 シャッターの閉まった飲食店の前で、九龍は言い淀んだ。
 もう少し歩けば工業団地に差しかかる。各工場に併設された鉄鋼会社は、既に営業時間を終えたようで、街全体にひとけがない。この土地で働く人々をターゲットにした店も閉まり、沈黙した建物だけが並んでいる。横断歩道の信号が赤になったが、車は一台も通っていなかった。
「最悪なんだけど、清掃部の連中とつるんでるのを見たって奴がいて」
「清掃部? 俺たちが《秘宝》を見つけた後クリーニングに入る、あの清掃部か?」
「そう。全員が悪人じゃないとは思うけど……実は前に、天香遺跡のことを根掘り葉掘り聞かれたことがあって」
 あの遺跡で経験したことに関しては報告書に記載したし、肝心の《九龍の秘宝》を探し当てたのは、九龍ではなく《道》だ。にもかかわらず食い下がられることに疑問を持ち、逆にわずかな情報を開示するふりをして腹を探った。
「でもたぶん、一番知りたいのは遺跡そのものについてじゃない」
「では、何を求めているんだ?」
「人を作り替える方法。墓守のみんなとの交戦記録は残ってるからさ、『ただの人間がここまでの《力》を持つだろうか、なんらかの手段で後天的に付与されたのでは』ってえらくご執心だった」
「阿門がDNAを書き換えたことは報告しなかったのか?」
「うん、大和のこともだけど、特に阿門に関する部分はぼかして書いたんだ。悪意のある人間に目ェつけられたら、絶対に狙われると思って。でも……まだまだひよっこだったからなー。ごまかし方が不十分だったんだろうな。最近、日本支部に顔出すと、清掃部の奴に同じことばっかり突っ込まれる。ほぼバレてるのかも」
「向こうがどこまで突き止めているのか、気になるところだな。甲太郎が、DNAの書き換えによって《力》を与えられた人間だと知られれば……」
「解剖……とかされたらやだな」
「清掃部はなぜ、人体の改造に興味を持っている?」
「さあ、そこまでは。よりによって清掃部ってのが謎なんだよ。言ったら悪いけど、めちゃくちゃ地味な部署だろ、あそこは。あーあ、甲太郎の奴、自分も狙われるかもって知ってんのかな」
 スマートフォンの位置情報を元に九龍の現在地を追う夕薙が、「そこを左に入れ」と教えてくれる。行き先は、工場の皮を被った清掃部の訓練所だ。掃除にトレーニングセンターが要るのだろうかと思ったが、特殊な知識の実践を要求されるがゆえらしい。また、仕事中に敵対勢力と遭遇することもあるので、ここで最低限の戦闘訓練も積むとのことだった。
 皆守と一緒にいたという清掃部の人間が訓練所の利用予約をした記録があり、九龍はそれを追ってきた。単なる掃除の手ほどきならいいが。
 何が起こるかわからないので、職務質問を食らわない程度の装備は整えてある。ここは遺跡ではないが、九龍にとっての《秘宝》を取り戻す旅の途中だ。
「あと百メートル。――本当に単独で行くのか?」
「他に仲間もいないからね」
「俺が」
「人の体をいじくり回すことに興味のある奴らだぞ。お前は絶対絶対ぜーったい駄目。本当にやばいと思ったら即姿をくらませ。俺が前に教えた連絡先、あれは本部の信用できる人だから」
 電話の向こうから、盛大なため息が聞こえた。
「同じ組織に所属する人物に対して、ここまで警戒しなければならないとはな」
「まあたぶん、普通の会社でも多かれ少なかれ同じだろ。困った奴はどこにでもいるよ」
「世知辛い世の中だ。――五十メートル。青いペンキで塗られた、倉庫のような大きい建物が見えるか?」
「ああ、わかるよ。じゃあ、ここからはイヤホンを外していくから」
「了解。一応、引き続き通話はオンにしておいてくれ。多少の音は拾えるだろう。それでは、《秘宝》の加護のあらんことを」
 スマートフォンをしまい込み、九龍はガンケースからハンドガンを出して、ホルスターにセットした。かつて墨木から譲り受けた砲介九式は、殺傷力こそ他のモデルに一歩譲るが、取り回しの簡単さでは圧倒的に優っている。状況把握が困難なときこそ役に立つ、頼りになる仲間だ。
 相手は同じ《ロゼッタ協会》のメンバー。疑わしいとはいえ、初っ端からあからさまに殺気を振りまくわけにはいかない。深呼吸をする。
 倉庫の扉は細く開いていて、そこから話し声がした。
 皆守の声。揺れても掠れてもいない。ほっとする。それから、若い男性が一人。
 九龍は意を決し、倉庫の中に足を踏み入れた。
 室内は意図的にかほぼ廃屋の様相を呈しているが、照明で昼間のように明るい。
 二人の男がいた。皆守は、見たところ怪我もなく、元気そうだ。もう一人はひどく痩せていて、嫌な目つきをしている。以前、天香遺跡について絡んできた清掃員だった。
 その眼球が間近で皆守を捉えた瞬間、気が遠くなりそうなほど頭に血が上った。
 皆守の隣は自分の場所なのに。

       ◇

 もしかして、九龍は今ごろ怒っているのではないか。
 その可能性に気づいたのは、彼を巻き込むまいと接触を絶った数日後だった。
 後回しになっていたが、そういえば、職場の近くにあるバルのローストビーフが美味いというので、一緒に行く約束をしたのだった。彼は食い意地が張っているから、皆守との食事の予定だけは、スケジュールアプリに書き込まなくても忘れない。
 いや、九龍が暗記できるものはもう一つあった。皆守の誕生日だ。
 そのことを思い出したら早くも里心がついて、皆守は知らぬうちに険しい表情を浮かべた。遺跡を模した石柱を使い、血痕の消し方を説明していた清掃員が、「どうしたんですか」と聞いてくる。
「いや。新しい知識を詰め込んだんで、知恵熱が出そうだと思ってな」
「ははは、急ピッチでしたもんね。休憩しましょうか」
 朗らかに笑う姿は、気のいい先輩でしかない。こんなところへ連れてこられたので身構えたが、やっていることは本当に清掃の訓練だった。
 害はないのかもしれないと、つい勘違いしそうになる。けれど、彼が時折見せるあまりにもぎこちない動作に、皆守の第六感が警戒を怠るなと告げていた。何もない場所で数秒間固まったり、目の動きがおかしかったりする上、話題の転換も唐突すぎる。
「――クリーニングって本当に怖いんですよ」
 こんなふうに。
「真っ暗な遺跡の中にランタンを持って入るんです。小さな明かりが、飛び散った体液を次々に照らし出して……闇と血臭の中で、くる日もくる日も掃除をするんです。敵対組織に殺されかけたこともあります。今までのように時間をかけてクリーニングしていたら、殉職者は増える一方ですよ」
 過酷な状況下でのクリーニング。だから、危険を冒してまで仕事をせずに済むよう、遺跡を汚すことなく《秘宝》を入手できる《宝探し屋》を作りたいのか。
 狂いかけた論理を朧げに追えたような気はしたが、指摘せずにはいられなかった。
「生体に手を加えるなんて遠回しなことをするより、《ロゼッタ協会》を変えるほうが早いんじゃないのか。クリーニングが危険だというなら、護衛でもつけさせればいい」
 固定されたように微動だにしなかった清掃員の目が、やっと皆守を映した。
 瞳は渇き切っていた。オアシスのない砂漠のごとく。
「無理ですよ。協会やハンターにとって大切なのは《秘宝》だけ。後始末をする人間なんて、壊れたら買い替える機械と一緒です。ほら、ルンバってあるでしょ、あれと同じ」
「人の命がかかっているのにか」
「人ではなく、ゴミです。清掃部の人間は、掃き溜めで生まれ、過去も未来もない者ばかり。ゴミがゴミ掃除をしているんです。ずっとそうだった。これからも」
 歪な鏡の向こうから、学生服を着た癖っ毛の少年が見つめてくる。
 清掃員の声音に満ちる、閉塞感と不信感。あのころ皆守が、ラベンダーの香りとともに纏っていた重たい鎧。
 ああ、これは止めたくなる、と今さらになってあの女教師の心の裡を悟った。この世界はそこまでひどくない。腐臭のする川は音を立てて流れるから目につくが、ほんの一歩進んだところに、息を呑むほど美しい土地も広がっている。
 けれど、その一歩を踏み出すのがどんなに難しいことか、皆守は経験から知っている。歩み出した先が楽園か地獄かは、先に進んだ人間だけがわかることだ。激流の前で立ち竦む者に、川向こうの景色は見えない。
 その地点を通り過ぎた者の傲慢さで、つい手を差し伸べたくなる。振り払われるだけだと知りながら。
「全員がそう考えているとは限らない。少なくとも俺は、本当に清掃部が危険な環境で働かされているのなら、おかしいと思うがな」
 清掃員の顔が、恥辱にまみれて歪んだ。瞳を潤ませ、声を上擦らせると、はっとするほど幼く見える。
「――同情なんか、しないでください」
「おい」
 ドスの効いた男の声が響き、二人は振り返った。
 黒いコートに身を包んだ、葉佩九龍が立っている。
 皆守には目もくれず、突き刺すような眼差しで清掃員を見据えていた。
 清掃員が皆守の顔を見上げる。一瞬垣間見えた激情は、嘘のように鳴りを潜めていた。二の腕に触れられる。乾燥して骨の浮き出た手だった。
「あなたに私たちは救えない」
 皆守が答えるより早く、九龍が顔に笑みを貼りつけて唸る。
「そいつに触らないでもらえるかな」
「私たちが人になるにはこれしかない」
「そうやってべたべた触っていいのは俺だけなんだよ」
「私は、新たなハンターを作る。塵も残さず敵を殲滅し、そして、我々を人間として扱ってくれる、英雄のような《宝探し屋》を」
「触んなっつってんだろ、聞こえねえのか」
 恫喝にも近い怒声が、びりびりと空気を震わせる。
 かすかな金属音。九龍が手にしたハンドガンの銃口は、清掃員の眉間を狙っていた。
 彼が力なく笑う。
「ほら、やっぱりゴミじゃないですか」
「――違う」
 考える前に体が動いていた。
 清掃員の前に立つ。絶対的な味方に道を阻まれ、九龍の肩が揺れた。
 だが、それもほんのわずかな時間だった。見る間に目が据わり出す。
 この瞳と相対するのは、《秘宝の夜明け》が天香學園を襲撃した日以来か。できれば一生御免被りたかった。九龍が本気で激怒することはめったにないが、一度スイッチが入ると、皆守でも手を焼く。ましてや非戦闘員を庇いながらでは分が悪い。
 助けてやる義理はないかもしれない。だが、どうしても守りたかった。九龍からではない。彼の目前で口を開けて待っている奈落からだ。
 かつて、自分の家よりも身近だった場所。
「おい。……皆守、に何を吹き込んだ」
「仲間になってもらっただけです。あなたは協力してくださらないようですが」
「俺のも、……他の誰かのDNAも、お前に渡す筋合いはない」
 九龍はなぜか皆守を一瞥し、再び清掃員に視線を戻した。
「他の誰か? 私は、優れたハンター以外に興味はない。あなたのような」
「なら、そいつを放せ」
「嫌です。皆守さんは……、皆守さんなら――」
「……お前がそいつの名前を呼ぶな。《宝探し屋》から《宝》を奪おうっていうなら、覚悟はできてるんだろうな?」
 九龍の指先が動くのを認めた瞬間、皆守は懐からジッポーを滑らせた。
 銃声。弾丸をどてっ腹に受けたジッポーが、体をくの字にして落下する。
 清掃員の首根っこを掴み、皆守は石柱の陰へと飛び込んだ。崩れて垂れ下がった天井の板材が目隠しになる。
 九龍の動向に注意を払いつつ、周囲を見回す。外からでは真新しい建物に見えたのに、廃墟同然の荒れようで、床材を突き破って木や雑草が生えている。ブッシュとして利用するには薄いか。
「なんでそいつを庇うんだ」
 苛立ちを露わにした九龍の大音声に、皆守も叫び返す。
「お前こそ、いきなり発砲はないだろッ。こいつにもこいつの事情があるかもしれない」
「どんな事情があったら、人の体の中身を掻き回しても許されるってんだよ。何を聞かされたか知らないけどな、そいつはお前の優しさにつけ込んで言いくるめようとしてるんだ、忘れろ」
 皆守は、痩せぎすの男の顔を見下ろした。
 そこにはなんの色もなかった。皆守を利用しようという期待さえ感じられない。ただ死刑の執行を待つだけの、従順な罪人の顔だった。あの人がいなくなった後、毎日鏡で見ていたのと同じ。
 間近にあった瓦礫の山の陰に彼を押し込む。
「九龍は俺が説得する」
「説得――?」
「そうだ。だから、あいつの弾では死ぬなよ。苦しみから逃れたいなら、余計な罪を背負って人の体をいじくり回す以外に、方法はいくらでもある。俺も一緒に探してやるから、待ってろ」
 幼子のようないとけなさで、彼が瞬きをした。
 その頭に手を置いて立ち上がる。物陰から出ると、九龍は変わらずこちらに照準を定めていた。
 考えを変えるつもりはないようだ。
「九龍、聞け」
「ああ、愛の囁きなら一晩中でも聞いてやるよ、そっちの奴を東京湾に捨てた後でな」
 まるで聞く耳を持たない。何かしらの逆鱗に触れたらしい。
 言葉での説得は困難と知り、懐から小ぶりな拳銃を出す。数日前、《ロゼッタ協会》日本支部を訪れた際に、記念品として受け取った品だった。そこまでの威力は望めないだろうが、きちんと弾丸の装填された実銃だ。
 九龍は銃を構えたまま、おかしな顔をする。
「なんの冗談だよ」
「なに、新婚旅行前にひととおり済ませておくべきかと思ってな。痴話喧嘩ってやつは」
 見様見真似で銃を構えながら、踵で瓦礫の欠片を蹴り上げる。かん、と軽い音がして、皆守の後方にある壁に当たった。
 九龍が気を取られた隙をつき、胴体を狙って回し蹴りを繰り出す。だが、踏み込みで察知された。わずかに布を掠める感触があったのみで、攻撃は空を切る。
「ちッ」
 九龍が躊躇なく手榴弾を出すので、うっかり笑いそうになった。切り替えの早い男だ。油断したら喉笛を食いちぎられることは身をもって知っているので、十分すぎるほどの距離を取る。一拍置いて、衝撃波が訓練所を揺らした。
 ところが、皆守が離れたのを見計らって、九龍は清掃員の元へ駆けていた。手榴弾は目くらましに過ぎなかったわけである。
 床を突き破って伸びる大木に向けて、九龍がワイヤーロープを射出する。葉の落ちた太い枝にヒット。ここを支点に振り子の要領で跳び、瓦礫を乗り越えて襲撃しようという心算だろう。
 それを止めるべく、皆守は枝の根元を鋭い蹴りで粉砕した。走るのも蹴るのも、皆守のほうが圧倒的に速い。その《力》を清掃員に見られるわけにはいかないが、うずたかく重なる瓦礫の山がちょうど目隠しになってくれる。
 ぱん、と破裂音に近い音がして、九龍がワイヤーロープごと弾かれたように跳ね上がる。遠心力が加わったところに突如制御を失ったせいで、意外なほどの距離まで吹き飛ばされた。
 受け身を取ろうと空中でもがく体に、鋼鉄の縄が絡まる。伸びも千切れもしない金属の拘束具だ。床を擦って転がり、ようやく止まったが、すぐには立ち上がらない。呻き声が漏れる。ワイヤーごと叩きつけられたのが効いたのだろう。
「まァ、聞けよ、九ちゃん。まずは俺の言い分だ」
 砂塵でざらつく床に手をつき、九龍がものすごい目で睨んできた。
「守ってくれとでも頼まれたのかよ」
「いや。あいつは俺に何も頼んじゃいない。『クリーニングに時間をかけるとハンターの査定が下がるから、バディのお前が習得したらどうか』とは言われたし、その誘いには乗ったが」
 九龍がほんの少し意外そうな顔になった。まだ毛を逆立ててはいるが、いくらか話が通じそうだ。皆守は、語気を和らげて語りかける。
「清掃部がクリーニングのときに敵対勢力と遭遇することがあるって話、聞いてるか?」
「……ときどき連絡は回ってくる。どっちかっつーと、清掃部がどうっていうより、《秘宝》を奪われるおそれがあるから、近くにいるハンターは早めに退避しろってニュアンスだけど」
「この話自体は事実ってことか。なるほどな」
 仲間内に怪我人が出る悲劇よりも、《秘宝》の回収が優先。皆守が今まで断片的に触れてきた《ロゼッタ協会》の印象とは合致する。
「クリーニングは危険を伴う。だから、自分たちを守るため、そもそも遺跡を汚さずに済むような、超人級のハンターを作りたい――だとよ」
「はァ? そのために遺伝子操作か? イカれてるだろ」
「俺も理解には苦しむが、……まあ、あまりまともにものを考えられてるようには、見えなかったな」
 皆守は瓦礫の山の奥に隠れる男を思った。
 建物内には、バリケードになりそうな形状の障害物が点在している。壊れた遺跡における戦闘を想定し、訓練を積めるようにか。
「誰かがそばについて、安全なところで少し休ませてやったほうがいいと思う。見逃してくれないか、九ちゃん」
「……もっとイカれてる奴がいた……」
 九龍が天を仰ぐ。時間の感覚がなくなるほどの強力な照明が、彼の顔に影を生み出す。
「あのな、あんな奴が怪我しようがおかしくなろうが、俺たちの知ったことじゃねーだろうが。それより、危険分子の芽は早めに摘んどかないと」
「このままあの男だけを捕らえたところで、清掃部の置かれている状況は変わらない。むしろ、思想に殉じたと英雄視されて、祭り上げられる可能性もある。それに……俺にあいつは救えないかもしれないが、せめて、自分で自分を救えるようになる手助けぐらいはしてやりたいんだ」
「なんでそこまで」
「お前が俺にしてくれたことを、他の奴にも返してやりたいんだよ。今の俺と同じく――生きててよかったと、思えるように」
 皆守の言葉を耳にして、九龍は顔を歪めた。
「……そんなふうに言われたら、何も反論できねーよ」
「悪いな。わがまま言って」
 九龍はワイヤーロープを払い、ため息混じりに立ち上がった。
 そして、また銃を手に取る。
「……おい。ここは黙って了承するところじゃないか、九ちゃん」
「お前の気持ちはよくわかった。けど、黙っていなくなったことと、その間お前をあいつに取られたことについてはまだ一ミリも許してない。どうしてもって言うなら、俺を倒してからにしろ」
 恨みがましげに吐き出して、九龍は表情を引き締めた。
「あと、場合によっては上と揉めるかもしれないんだから、それでも大丈夫と思えるくらいの力があるかどうか、見せてみろ」
「なんだ、一緒に揉めてくれるんじゃないのか?」
「行間を読めバーカ」
 九龍が怒鳴って、ハンドガンを構える。
 皆守はふっと重心を低くし、そのハンドガンを蹴り上げた。水面蹴りの要領で九龍の足を払い、転ばせたところを引き倒す。
 九龍の腹に膝を乗せ、体重をかけて動きを封じる。おもちゃのような拳銃を突きつけると、彼はなぜか笑い出した。
 愛おしくてたまらないとでもいうように。
「何笑ってんだ、九ちゃん。お前の負けだぜ」
「わかった、わかった。降参。さっきから言おうと思ってたんだけどさ」
「なんだよ」
「銃ってのは、安全装置を外して使うもんだぜ」
 ――そのとき、建物の扉が乱暴に蹴り開けられ、複数の足音がなだれ込んできた。

       ◇

 まあ、普通に考えれば、あの清掃員が増援を呼ぶ可能性には、思い至って然るべきである。
 皆守の対角線上に立つのが久しぶりで、想像以上に気が昂ってしまった。それにやはり、怒りもあったのだろう。大事なものを横取りされてさらりと許せるほど、九龍は心の広い人間ではないのだ。
 しかし、それにしてもお粗末だった。穴があったら入りたい思いである。
 武装した男たちが突入してきたとき、手を出すなととっさに指示できたのはよかった。皆守の《力》を見られては厄介なことになる。あの清掃員個人に彼を利用するつもりがなくても、他の連中はわからない。しかし、揉み合ううちに、顎へ一発いいのを食らってしまった。しかもわりと序盤で。
 脳が揺れた。衝撃とともに焦点が合わなくなり、気持ち悪さと痛みでろくに起き上がれない。こういうときはまず手足を封じるのがセオリーだろうに、重篤な後遺症に繋がりかねない部位を初手から狙うとは。
 一時的に自分の現在地を見失い、相棒は無事かと必死に聴覚を働かせる。声がしたので大丈夫そうだ。無理に視線を上げると、あの痩せた清掃員の男が、庇うように皆守の前へ立っていた。この愉快な連中からではなく、九龍から守ろうというのである。腹立たしいことこの上ないが、身動きが取れない以上抗議もできかねた。
 上下の感覚も曖昧だったが、強く擦れた感触があったので、たぶん床の上を引きずられたのだろう。脳震盪を起こした人間を安易に動かすべきではないが、九龍のハンター生命などどうでもいいと思っているのか。
 折り重なった瓦礫に背をもたせかけられる。あっけなく銃声がして、右足で痛みが炸裂した。
「うっ……」
 反射的にうずくまるのを押さえつけられる。どっと冷や汗が出てきて、呼吸が速くなりすぎないよう、意識して操る必要があった。太い血管のある位置ではない。だがどこであろうと、生身の体を撃たれれば涙が出るほど痛いに決まっている。
 ぼやけた人垣の奥に、皆守の癖っ毛が見える。目が合っているかどうかも判然としないが、頼むから冷静さを失ってくれるなと念じた。さすがにこの場で味方が減ったら困る。
 吐き気は引いてきたが、代わりに足の痛みが鮮明になる。髪を掴まれた拍子に体が揺れ、九龍は思わず顔をしかめた。
「えーとぉ、綿棒でいいのかね」
「せっかくだから血ももらってこうぜ」
「……『せっかくだから』で、無駄玉、撃つなよ。素人じゃ、ねえんだから」
 血が足りずにうまく頭が回らなかったのか、思ったことをそのまま口にしてしまった。一番近くにいた男が無表情になる。
 ばつん、と肌を打つ音がして、頬と左耳の奥に痛みが走った。
「――叩ける余裕は――だな。前から――入らな――、――カノジョを――やがって」
「――、お前が――だろ?」
 だはははは、と仲間内の冗談らしい笑い声が響き渡るが、妙にくぐもっている。今の平手で鼓膜が破れたか。
 九龍は小さく首を横に振った。彼らの奥で息を殺して見守っている、かわいそうなバディに向けて。
 右胸の裏ポケットに入れたスマートフォンが、「あと一分。気張れ」と呑気に告げてくる。まったく、スピーカーモードにしていなくてよかった。
「――殺しても、……――だ?」
 建物の外から音が接近してくることに気づき、男たちがさざめき立つ。九龍は腰のパルスHGをもぎ取った。
 ヘリコプターのプロペラ音だと知った彼らに動揺が走る。その間にピンを抜き、手榴弾を天井に投げる。
 照明器具が粉々に割れ、ぱらぱらとガラスの破片が落ちてきた。すべてを粉砕するには至らずとも、九龍たちのいるあたりは瞬く間に暗くなる。
 混乱に乗じて、皆守との連携で敵を打ち倒すつもりだったが、相手は予想外の反応を見せた。
「――暗い! 暗い! 暗い!」
「奴らが来る!」
 あの清掃員も、皆守の傍らで頭を抱え、殺される寸前のような叫び声を上げる。
「嫌だ、嫌だ、もう嫌だ、嫌だ」
「おい――」
 皆守が宥めようとしている。信じがたいほどお人好しだ。でも、そんなところに惚れたのだから仕方がない。
 九龍は笑って、ずるりと崩れ落ちた。急所は避けたつもりだが、取り押さえられるときに殴られた箇所に鈍痛がある。
 男たちは、パニックを起こしたかのように建物から走り出ていった。ヘリコプターの音が止まり、さらに怒鳴り声のようなものが聞こえる。
 おそらく、夕薙のよこした医療チームと鉢合わせたのだろうが、そこから先はよくわからない。
 震える手が、縋るように九龍の手を握ったことを除いて。


 ……あー、痛ェ。
 どこが痛いのかもわかんないくらい痛ェ。
 ま、慣れてるけどね。
 俺は別に、全然平気なんだよ、こんなん。なんなら、ハンターになる前の研修のほうがきつかったし。スナック感覚で毒食わすなって話だよな。
 ……あいつら、捕まったのかね。まあ、殺されはしないだろ。協会だって鬼じゃない。《秘宝》以外には興味ないだけで。ひどいなーとは思うよ、でもしょうがないじゃん? そういう人間の集まりなんだから。甲ちゃんだって、そういう俺を好きになってくれたんだろ。
 心配、かけてるかもしれないけど、大丈夫だから。俺、すげー頑丈だし。これからは甲ちゃんがそばにいてくれるから、もっと大丈夫。最初は、どこ行こうか。インドとかタイ? カレーがうまそうなイメージ。
 あ、でも、甲ちゃんが土地を気に入りすぎて、バディ辞めてカレー屋開業したらどうしよう。
 俺もやればいいのか。雇ってもらえるかな。皿とか割ったらごめん。
 そうそう、この前落とした皿、マジで悪かった。まだ怒ってる? ごめんな。
 あーけど、甲ちゃんに怒られるの、実はちょっと好きなんだよな。なんか帰ってきた感じがして。へへへ。幸せ。
 ……甲ちゃんは幸せなのかなぁ。
 幸せになってほしいんだけどな。
 もういいじゃん、昔のことは。
 お前は悪くないんだって、そろそろ聞き入れてくれる気になった?
 まだかなー。
 そんな顔させたくて一緒にいるわけじゃないんだけどな。
 さっきさぁ、あいつと二人でいるのを見たとき、一瞬、一瞬だよ、浮気か? って思ったわけ。ついに愛想尽かされた? って。
 でもさー、顔見たら、俺を裏切ったわけじゃないって一目でわかるじゃん。なんなら向こうもわかった上で連れ回してたんじゃねーの。
 そういう、誰かを騙すみたいなの、向いてねーんだよ、お前。気づけよ。俺、高校のときから知ってたからね。
 ほんと、……いい加減、腹括って、……幸せになってくんないかなぁ。


 とろとろと、まるで寝言のように紡がれていた九龍の声が、ふいに途切れた。
「九ちゃん」
 いくら呼びかけても、がらんとした建物内は静まり返っている。手を握り返されることもなかった。
 時間の流れの中に、たった一人で取り残される。薄闇の中でもなお白い顔色が、網膜に焼きついたようになる。
「先生。患者が」
 鋭い女の声に、皆守は振り返った。
 看護師らしい、動きやすそうな制服を身につけた女が、大股で近寄ってくる。わずかな乱れもない引っ詰め髪は、仕事への熱意を表しているかのようだった。
 その後ろから、恰幅のいい白髪の男が姿を現す。白衣には、《ロゼッタ協会》のエンブレムが刺繍されていた。
「ふむ。彼には縁があるな」
 ストレッチャーを押して男たちが駆けてくる中、彼はそのアイスブルーの瞳で、九龍を見下ろした。

       ◇

 担当医と顔を合わせて真っ先に確認したのは、半年に一度ある《ロゼッタ協会》のメディカルチェックに通りそうかということだった。
「まあ、順調にいけば問題ないだろう」
「よかったー」
 ベッドの上で脱力する。
 《ロゼッタ協会》は、所属するハンターの健康状態を定期的にチェックしていた。もし弾かれればライセンスは剥奪され、少なくとも、協会に籍を置きながら遺跡へ潜ることはできなくなる。《秘宝》を持ち帰れぬ者に便宜をはかる理由はない。
「ただし、再度脳震盪を起こした場合は、セカンドインパクト症候群によって、致命的な障害を負うおそれがある。よくよく気をつけたまえ」
「はーい。わかってます。でもほんとよかった、このまま引退にならなくて」
 胸を撫で下ろす九龍に、医師が何枚かの書類を渡しながら言う。
「おや。数年前に会ったときは、仕事中に命を落とすのなら本望だと言っていなかったかね」
「まあね、いよいよそのときが来たなって思うだけですけど。もしこれで廃業ってことになったら、俺より落ち込みそうな奴がいるから」
「自分よりも自分の身を案じてくれる相手は、大切にすべきだな」
「ええ、ほんとに」
「彼には、大まかな注意事項は伝えてある。今後の治療はここの病院の医師へ引き継ぐ。しばらく安静にしておくことだ。それでは、《秘宝》の加護のあらんことを」
 医師は足早に九龍の病室を去っていった。また新たな空へ向かうのだろう。
 入れ替わりに、もう一人の男が入ってきた。片手に大きな紙袋を提げて、入り口のところで立ち尽くしている。
「あっ。『ごはんですよ!』持ってきてくれた?」
「――が、――」
「お、ごめん、反対側に回ってもらえる? うまく聞き取れないや」
「……悪い」
 声をかけられて、九龍の左側に歩み寄ってきた皆守が、ぐるりとベッドの周りを回る。
 紙袋の中身は、頼んでおいた着替えや日用品だろう。病院食が味気ないので、佃煮やらふりかけやら、ご飯のおともをたくさん買ってきてもらった。塩分がどうとか心配されたが、毎日一口ずつ楽しむからと押し切ったのだった。
 手招きして近寄らせ、皆守の顔をぺたぺた触る。柔らかくも特別美肌というわけでもない男の頬。
「はー。癒される」
「お前、頭でも打っ……たようなものか。ならやむを得ないな」
 皆守がいたわしげに目を細める。本当はいつも癒されていたが、あえて口にはしていなかっただけだ。しかし、怪我人というだけでこうしていても許されるのだから、禍福は糾える縄の如しとは言い得て妙である。昔、雛川に教えてもらった言葉だった。
 黙って撫でられていた皆守が、やがて神妙に話し出す。
「あいつら、暗闇が駄目なんだとさ。真っ暗な遺跡の中で、味方が何人も殺されたとかで」
「なるほどね」
「一応、治療を受けることになって……清掃部の人間がごっそり消えたんで、クリーニングが回らなくなった。おかげで、上もやっと重い腰を上げて、作業時の安全確保について対策を練ってるらしい。大和からの又聞きだが」
「へー。まあ、よかったな」
「ああ」
「お前、心配してたもんな」
「そこか?」
「俺にとってはそこが重要だよ。大和、元気だった?」
「電話で聞く限りは元気そうだったな。今度三人だけで飲もうとさ」
「いいねー。俺、ワイン飲みたいな」
「怪我が治ったらな」
 かがむ姿勢が苦しくなったのか、皆守はベッドのふちに腰かけた。背中が丸まっている。
「あー、俺のほうからもお知らせなんだけどさ。《宝探し屋》続けられそうだよ」
「本当か」
 皆守が息を呑んで振り向いたので、九龍のほうが驚いた。
「うん。まあ、しばらくは動けないけどね」
「……よかった」
「なんだよ、そんなに喜ぶなよ」
「喜ぶに決まってるだろ」
 皆守に言われ、九龍は子ガメのように首を竦めた。
 手を伸ばして、皆守の手に触れてみる。目を瞑っていても形を思い描けそうだ。
「九ちゃん、お前、意識を失う前に何を話してたか覚えてるか?」
「いや、あんまり」
 とにかく彼を安心させなければと、必死で言葉をひねり出していたことだけは記憶にある。
「なら、いい。まあ……それとは関係なく、お前に頼もうかと思っていたことがあってな」
「なに?」
「いつでもいい。俺の家族に会ってもらえないか」
「かぞ――えっ?」
 あまりにも予想外の申し出だったので、反射的に起き上がろうとしてしまった。怒った声とさほど怒っていない手が、九龍をベッドに押し留める。
「寝てろ、馬鹿。まあ、連絡先くらい知っておいたほうが、この先なにかと便利だろ」
「おっ、……おう。……え? マジ?」
「気が進まないなら、無理にとは言わないが」
「いや、会う。会ってみたい。どうしよ、スーツとか着ていくべき? 練習しとかなきゃ、息子さんを僕にください、むす」
「普通でいい」
「普通ね。了解。あ、じゃあうちの親にも紹介するよ」
「わかった。一度ちゃんと挨拶しておきたかったからな」
「ほ、ほんとに? あっ、でも、今どこにいるんだろ。まあいいや、いくらなんでも地球外にはいないだろうし……。連絡しとくよ」
「頼む」
 予想外の展開に、足が無事ならパタパタと暴れたいような気分だった。顔がひとりでににやけてきて、手で押さえる。
 皆守の「この先」が続いていて、しかもその中に九龍がいる。
 それがどんなに貴重なことか、九龍はよく知っていた。
 こじれにこじれた片思いの期間が長かったので、九龍についていきたいと本人の口から聞いたときですら、夢を見ているのではないかと半信半疑だった。だが、どうやら現実だ。
 ひんやりした手の甲が、九龍の顔をゆっくり撫でる。
 その手が優しかったので、九龍も一つ申し出る気になった。
「あのさー、甲ちゃん。俺、思ったんだけど、お互いに、もうちょっと考えてることを話したほうがいいのかなって」
「……そうだな。何も、音信不通になることはなかったか」
「俺も、阿門の話とか全然してなかったしね。迷惑も心配もかけたくないから、つい一人で解決しようとしちゃうけど……二人で考えたら、もっといい方法が浮かぶかもしれない」
 頬を撫でる手を取り、九龍は戯れに指先を絡めた。
「でさ、ここからが本題なんだけど。甲ちゃんにお願いがあるんだ」
「なんだ? まあ、今回は迷惑かけたしな。多少のことなら聞いてやるよ」
「俺、甲ちゃんに面と向かって好きとか愛してるとか言われたことないんだけど」
「そんなこと、……」
 記憶を紐解いているらしい皆守が言葉を止めた。
 九龍が覚えていないのだから、彼の記憶にもないだろう。皆守は「こんなはずでは」と言わんばかりの渋面を作る。
「いや、伝わってたよ、気持ちは十分伝わってたけどね? でも一生に一回くらい甲ちゃんの声で聞いてみたいと思わない?」
「……」
「俺、すげーがんばったと思うんだよね。甲ちゃんのこともめちゃめちゃ心配したし」
「…………」
 皆守の眉間の皺が深くなる。九龍も、改めてこの場で愛の言葉を吐けと乞われれば、きっと似たような顔になるだろう。ここは病室。足元に『ごはんですよ!』が置いてある、現実以外のなにものでもない空間だ。ロマンスに酔える状況とは言いがたかった。
 だけど、聞きたい。
 皆守が、布団に手をついて立ち上がる。先ほどとは逆回転でベッドの周りを移動し、九龍から見て左側へやってきた。
「そっちじゃ聞こえない」
 文句を言う口は手で塞ぎ、皆守が枕元へ顔を寄せる。
 左耳の鼓膜はまだ再生していない。やはり、そちら側の音は拾いにくい。
 けれど、耳たぶの裏側に唇を押し当てられたので、何を囁かれたかはよくわかった。

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