『メッセージは一件です。二〇十五年三月二十日、午後六時五十八分』
『九ちゃん? 今改札に着いた。気がついたら折り返しくれ』
『このメッセージを消去するには三、もう一度聞くには一を……』
『九ちゃん? 今……』

 皆守が住むアパートからの帰り道、イヤホンで音楽を聴くふりをして、九龍は留守電のメッセージを何度も再生していた。
 足取りがおぼつかない。使っているのは耳なのに、目までどうかしてしまったのだろうか。
 信号待ちの間、目を伏せて聴覚に集中する。本人に知られれば気持ち悪がられるかもしれないが、黙って聞く分には問題なかろう。
 どうしてそこまでして彼の名残を追い求めるかといえば、今日は寝る場所が別々だからだ。
 近い関係になってからこっち、日本に戻ってきた時は皆守の部屋へ転がり込んでいたが、さすがに毎度迷惑はかけられない。そこで今夜は夕食だけ共にして、九龍はマンスリーマンションへ戻ることにした。
 皆守は泊まっていっても構わないと言ってくれたものの、平日のど真ん中だ。九龍は久しぶりに顔を合わせたことではしゃぐ自信があったので、あえて物理的な距離を取ることにした。やれ行儀が悪いの寝言がうるさいのと細かいことにはぶうぶう言うくせに、仕事に差し支えて迷惑だとは一言も口にしない男である。ならばこちらから配慮すべきだろう。
 ゆえに夜九時には皆守の部屋を出たのだが、どうも落ち着かない。外がもっと寒ければ急いで通り抜けるのに、花の香りに酔いそうな暖かい夜なのも悪い。九龍はどうにかこうにか気を鎮めるべく、留守電に録音された数秒のメッセージで皆守を補給しているというわけだった。
 自分でも乙女じゃないんだからとは思ったが、だからといって気持ちを変えられるわけでもない。夜だから頬が緩んでも通行人に見咎められないのが救いだ。
 それにしてもひどい。電波も届かない遺跡の奥にいた時は、まったくこんなふうには思わなかったのに。なまじ十数分前まで会っていたからこそ、心が期待するのを止められない。
 何回もメッセージを聞いて、短い言葉のイントネーションからわずかな間まですっかり覚えてしまったところで、九龍はようやく再生を止めた。ここまでくれば、頭の中で繰り返せるからだ。
 川を渡り、住宅地を通り抜け、駅の裏手に着く頃になって、ようやく少し発作が治まってきた。
 よく考えれば、明日も会う約束をしている。何をがっついているのやら。今度は恥ずかしくなってきた。スマートフォンと一緒にポケットへ突っ込んでいた手を出して、頬をごしごし擦る。
 古い神社の鎮守の森が見えてくれば、仮の寝床まではもうすぐだ。習い性で周囲に視線を走らせながら、素早く部屋の鍵を開ける。
 入室して施錠したところで、突然スマートフォンが着信を知らせた。
「うわっ」
 とりあえず出てしまってから、かけてきた相手に気づく。
「よォ、今平気か」
「甲ちゃん……俺の努力返して」
「何の話だ?」
「別に。何、どしたの?」
 ぺちぺち頬を叩きながら、靴を脱いで部屋に上がる。まかり間違っても九龍が帰り道で何をしていたか知られてはならない。馬鹿にしたりはしないだろうが、想像しただけで叫び出したくなる。
「無事帰ったかと思って……何の音だ?」
「ほっぺ叩く音」
「新手の健康法か何かか?」
「いや、会話のBGMだと思って」
 ぺちぺちぺちぺち。
「そうか」
「今理解すんの諦めたでしょ」
「個性は尊重したほうがいいかと思ったまでだ」
「ホントかなぁ」
 ぺちぺちぺちぺち。
「で、もう着いたのか?」
「うん、今着いたところ。別に心配するようなことないよ」
「まあ、お前の戦闘能力はよく知ってるが」
「が?」
「声を聞いてから寝るのも悪くないかと思ってな」
 べちん。
「いって!」
「何やってんだ」
 電話越しにも呆れた顔が思い浮かぶ。九龍は勢い余って強く叩きすぎた頬をさすりながら、皆守に怒鳴った。
「なんなの甲ちゃん? 俺に喧嘩売ってる?」
「いや……え? なんでそういう解釈になるんだよ」
 素で当惑しているらしい声が聞こえてくる。九龍はぶすっと黙り込んで頬をさすり続けた。皆守も焦って言葉を重ねるようなことはなく、雑音混じりの沈黙が続く。
「……似たようなこと考えてて驚いただけなんで気にしないでください」
「わかった」
 今度は声が笑っている。
 九龍はスマートフォンを持ったまま、部屋の壁に掛けられた時計を見上げた。
 次に皆守と会うのは、早くても二十二時間後だ。
「明日、また駅んとこでいいんだよね」
「ああ。俺の部屋に入っててもいいぞ。鍵持ってるだろ」
「でも、待ってるよ」
「それなら、駅ビルの本屋の中で落ち合うのはどうだ? 明日は冷えるらしいしな」
「了解。ハーレクイン小説の棚の前にいるから」
「行きづらいな……」
 さっきさんざん確認したばかりなのに、明日の約束について今一度詳細を詰める。互いに建前なのはわかっていた。本当は声を聞いていたいだけだ。
 それでもいよいよ打ち合わせることがなくなって、九龍は窓の外の街灯を見下ろしながら言った。
「じゃ、また明日。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 九龍はスマートフォンを置いて、早く入浴を済ませてしまおうと着替えを引っ張り出した。
 早く眠りにつこう。そうしたら早く朝が来て、待ち遠しい夜もすぐに来る。

back