黒い染み

 いかめしく武装した黒い兵隊を前に皆守が頭の片隅で考えていたのは、せっかく準備をしたのに、ということだった。
 冷蔵庫の中は空にした。入学時のオリエンテーションで習ったとおりにベッドメイクも済ませた。梅雨ごろに授業をサボろうと図書室へ転がり込んで以来、借りっぱなしになっていた本も返した。
 これらはすべて、生きてあの墓から帰ってこられなかった時のための準備だった。
 冷静に見極めれば、純粋な身体能力で葉佩九龍に劣る要素はない。だからこれは、口が曲がりそうな美しい言い方をすれば、覚悟、のようなものだった。見下すことと表裏一体の。明らかに生物として勝るほうが負けを想定して動くなんて、舐めている以外のなにものでもない。
 皆守甲太郎は戦いの美学を知らなかった。ただの高校生だから、当たり前だ。
 皆守とは違って、九龍はただの高校生ではない。もちろん理解していたつもりだった。
 化人の弱点を撃ち抜くのとなんら変わりない気軽さで《秘宝の夜明け》の兵を殺そうとする、その姿を目の当たりにするまで。
 しかもよりによって、通い慣れた三年C組の教室での話だ。
「ッ……待て、おい、九龍!」
「はっちゃん!」
 皆守と取手が渾身の力でしがみつかなければ、九龍の手は相手の命を奪っていただろう。
 命に軽重などないかもしれない。化人も遺跡の地下に巣食う化け物とはいえ生きているし、この兵士たちは生かしておけば無辜の生徒たちに害を成すのかもしれない。
 それでも、あまりに迷いなく人を殺めようとするので、善悪とか価値判断とかを飛び越えたもっと原始的なところが、彼を止めなければならないと叫んでいた。
 引きずられて机をばたばた薙ぎ倒しながらも羽交い締めにし、ようやく九龍を取り押さえる。
 九龍が足止めを食ったのを見て、手負いの兵士たちはいっせいに退却した。命までは取られていないとはいえ、両腕に深手を負っている。この學園から出られたとしても、戦線に復帰できるまでにはしばらくかかるだろう。
「……もう追いかけないよ。離して」
 ふてくされた声の場違いさにめまいがする。まるで、叱られた子供のようではないか。
 だが、九龍は皆守と同じく多少の分別がつく年齢だし、命の重さも知っていたはずなのだ。これまで皆守が見てきたものが嘘でなければ。
「なんで止めたんだよ」
「なんでって……、お前、あいつらを殺すつもりだっただろ」
「そうだけど? テロリストなんだよあいつらは、世界中で似たようなことをしてる」
「だからって」
 だからって、生きた人間をおもちゃか何かのように扱っていいはずはない。
 九龍が相手でなければ、そう断じることもできたはずだった。皆守の倫理観が間違っているとは思わない。けれど、あの九龍がここまで激情を抑えきれないのならば、何か理由があるのかもしれないと思った。
 理由。殺していい理由、相手の尊厳を無視していい理由とはなんだろう。
 そんなものがあってたまるか。
 いつもの九龍ならそう切り捨ててもおかしくない。現に、皆守の頭の中の九龍はそう言っている。
 結局、九龍も人をゴミ扱いするのか。
 なんと勝手な失望だろう。だがその瞬間、皆守は過去に出会ったくだらない大人たちと彼を、確かに心の中で重ね合わせていた。
 その時静かな声で九龍を呼んだのは、取手だった。
「はっちゃん」
 九龍が緩慢に顔を上げる。猫背の取手が身を屈めてもなお、九龍が上を向かなければ視線は合わない。
「君は、彼らの命を奪うのかい?」
 なんの色も含まない、極めてフラットな問いかけだった。
 しかし、だからこそ九龍は、初めてぶん殴られたような顔になった。べらべら喋るタイプではないけれど、一言一言をじっくり吟味しながら話す取手に言われたことも大きいかもしれない。
「……《秘宝の夜明け》は、オーパーツの力を悪用して世界を牛耳ろうとしている、テロリストで」
「うん」
「野放しにしておいたら、また悪さをするから」
「そうなんだね」
 取手の返答は、まるで砂漠の砂のようだった。どんなに強く押されてもするすると力を逃がしてしまうような。
 跳ね返ってくるよりも、却って響くものがあったらしい。九龍はうなだれた。
 皆守は、取手と視線を交わし合った。取手がこの場にいて助かった。こういう諭し方は、皆守には絶対にできない。諭すことが正しいのかも定かではなかったが、九龍が人殺しをするところなんて見たくないという点で、二人の意見は一致していた。
「……九ちゃん。お前はこの天香學園に、何をしに来た? 《秘宝》を探すんだろう。《宝探し屋》なんだろう」
 だから、これ以上落胆させてくれるな。夢を見せておいて、叶えられないなんて言うな。やるなら最後まで演じ抜け。
 言外の望みが伝わったはずはないが、九龍は渋々でも頷いたので、取手と皆守はようやく彼を解放した。九龍の腕を握り締めていた手は冷や汗をかいている。
「けど……俺は、もし二人に危害が及びそうになったら、迷わずにあいつらを殺すよ」
 まだ下を向いたまま、九龍がぼそりと言う。力強く答えたのは、意外にも取手だった。
「大丈夫。僕が君を守るから」
「え? いや、俺が二人を守るって話で……」
「その前に僕がはっちゃんを守る。だから、心配いらないよ」
 九龍が助けを求めるような顔でこちらを見たが、皆守はひらひら手を振ってやり過ごす。恨むなら、純真な心の持ち主をうっかり救ってしまった過去の自分を恨め。
「……甲ちゃんも守ってあげて?」
「おい。なんでそうなる」
「うん、わかったよ」
「取手、お前も大真面目に答えるんじゃない」
「僕は真面目だよ。何かおかしいかな?」
 今度は九龍と皆守が顔を見合わせる番だった。
「鎌治はおかしくな……」
 九龍の声に重なって、どこかで物音がした。
 緩みかけた場に緊張が走る。取手が呟いた。
「美術室のほうだ」
 その言葉を聞くやいなや、九龍は弾丸のように教室を飛び出していった。
「九ちゃん! 追うぞ、取手ッ」
「ああ」
 教室を出る。三年生の教室の前を駆け抜け、美術室がある中央棟へと続く渡り廊下に出た。
 突き当たりに、《秘宝の夜明け》の兵士が立っている。どこかで《生徒会》の関係者に手ひどくやられたのか、動きは鈍い。
 一目散に駆けてくる九龍を迎え撃つべく、男はのろのろとライフルを持ち上げた。しかし、銃身の重さにさえ難儀する体で、動く的に照準を合わせるのは至難の業だ。
 一度銃声が響いたが、その銃弾は渡り廊下に展示された絵の額縁を削ったに過ぎなかった。
 美術部の部員がコンクールのために描いた、号数の大きな絵だ。
 その横に「三年C組 白岐幽花」と書かれたプレートが貼られていることを、美術室へ出入りしていた九龍が知らぬはずはない。
「……の野郎!」
 九龍が吠える。ナイフの柄に手がかかる。
 止めなければ。
 九龍を制するにはどうすればいいのか考える。取手の眼前では、力づくで止めるわけにはいかない。
 ほんの一、二秒で弾き出した答えだった。
「九龍!」
 皆守の声は九龍に届いている。確信があった。
「そいつを殺したら縁切るぞ!」
 九龍はナイフを鞘に収めたまま、膝蹴りのような形になって《秘宝の夜明け》に突っ込んだ。
 渡り廊下の窓から差し込む月明かりが、もつれ合って転がる黒い塊を照らし出す。
 皆守と取手は、二人を追って美術室へ駆け込む。男が銃把で九龍のこめかみを殴り、突き飛ばしたところだった。
 よろめいた九龍は、ゴミ箱の奥に立てかけてあった廃棄用の蛍光灯を掴む。
 男の脳天へ叩き込むと、ぱん、と破裂音に近い音を響かせて蛍光灯が粉々に割れた。
 九龍は怯んだ男の腹を靴底で蹴り抜き、逆上がりの要領で片腕に飛びついて、銃を払い落とした。
 取手がその銃を拾い上げる。九龍は身軽に着地して、相手の腕を掴んだ。
 蛍光灯の破片が散らばる床への背負い投げ。武装しているとはいえ、布の繊維を突き破るガラス片は痛かったらしい。体を跳ねさせる男に跨がり、九龍は喉元へハンドガンを突きつけた。
 勝負あり。
 だが、皆守と九龍の勝負はここからだ。
 傍らの取手が、拾い上げた銃を抱き締めている。旋律を紡ぐための手に持たせておくのが忍びなくて、皆守はすぐにその凶器を受け取った。柄にもなく大声を出したせいで、九龍の名を呼ぶのでさえ喉が痛い。
「九ちゃん。わかってるよな」
「……くそっ」
 九龍が歯軋りしかねない勢いで銃口を男に押しつける。
「くそっ……くそっ……くそっ……後から来て人の獲物に手ェ出しやがって……しかも幽花ちゃんの絵を」
「九ちゃん」
「……くそぉっ! 俺にどうしろってんだよ!」
 窓ガラスがびりびりと震えるほどの声で九龍が叫び、使いかけのパレットや鉛筆の並ぶテーブルから、千枚通しを手に取った。鋭く尖った先端が、月光を尖らせて跳ね返す。
 重い音とともに、その切っ先は男の肉を貫いた。
 ガスマスクががこっと外れて、男の顔が露出する。千枚通しはガスマスクの継ぎ目から入って、左右の頬を横一線に貫通していた。九龍が腹立たしげにそれを引き抜くと、ずっ、と赤く濡れた摩擦音がする。
 九龍は膝に手をついて立ち上がり、男を引きずってベランダへと続く戸を開けた。
「お前らなんか……お前らなんか……俺の宝物がそばにいなきゃぶっ潰してやるのに……」
 九龍はぶつぶつと呟きながら、男の体をベランダの手すりに乗せた。皆守は近寄ろうとする取手を止める。あの下にはクスノキの大木が植えられている。運がよければ、枝と葉に引っかかって死は免れるだろう。
 九龍が男を突き落とすと、下からばきばきと小枝の折れる音がした。よく耳を澄ますと、その後這いずって遠ざかるような音も聞こえたので、あの男は悪運に恵まれていたらしい。
 九龍はベランダに立ち尽くしたまま、小さく肩を上下させていた。
 皆守はアロマパイプに火をつけようとしたが、ライターがないことに気づいて諦める。黒塚を守るのでお釈迦にしてしまったのだった。
 仕方なく、ベランダのほうへ歩いていって、中途半端に開いた引き戸に手をかけた。
「やればできるじゃないか」
 九龍はゆっくりと振り返る。その瞳には高い温度の熱が宿っていたが、九龍がぐっと唇を引き結ぶので、溢れ出さずに済んでいた。
「絶交はお預けだな」
 九龍は反論したそうに眉を寄せつつも、大人しく美術室の中に戻ってきた。顔はちっとも大人しくなかったが。
「どうどう」
「……馬じゃねぇし」
 心底悔しそうではあったが、言葉が返ってきたので皆守も軽口で応える。
「そうだな、馬は三歩歩いても忘れないからな」
「俺だって三歩くらいなら覚えてるわ!」
「へえ。雛川の小テストの前には競歩大会でも参加してたのか?」
「……きぃぃ!」
 早くも反論の限界に達した九龍がばんばんと机を叩き、「痛い」と手のひらを押さえる。美術室の作業台は、刃物を扱っている最中に万が一ずれては困るので、重たく堅いナラの木でできているのだった。
「はっちゃん、その銃はどうしようか」
「弾薬だけ抜いて処分だ処分。スクラップにしてやる」
 九龍は皆守が持つ銃を「貸せ」とひったくり、あっという間に弾丸を懐へ収めてしまった。
「甲ちゃんに持たしておけるかこんなもん」
 皆守が取手に対して抱いたような感情を、九龍も抱いたようだ。取手が微笑ましげに見守っている。
「……で? あいつらを追うんだろう」
「うん。先生方の家から武道場と来て、男子寮、《九龍》、温室、中庭……校内も一通り回った。下っ端は今ので最後だろ」
 とどめを刺すのはことごとく邪魔されたけどな、と睨まれて、皆守は素知らぬ顔で両手を上げる。たまたまそのすべてで足が滑っただけだ。
「親玉は墓の下だ。俺は当然ぶっ飛ばしに行くけど、二人はどうする? 危ないから寮にいても」
「僕は君を守ると言ったよ」
「やっぱり三歩だな」
「ここまで百歩はあっただろッ」
 ぽこぽこ怒りながらも、九龍は《執行委員》に遺跡からの退路を確保しておいてもらえるようメールした。万が一残党に出入口を塞がれたら詰みだ。
 遺跡に向かう途中で白岐の絵の前を通りがかり、三人は足を止めた。絵そのものは無傷で、額縁の端が欠けただけだった。それでも、九龍は白岐本人が傷つけられたかのように痛ましげな表情を浮かべる。
「せめてなんとか直せるかなぁ、これ」
「ここだけ粘土で埋めたらどうだ? 土偶みたいに」
「ギミックを動かすための最低限の修復と、美術品の補修じゃ話が違うよ。まったく甲ちゃんって芸術的なセンスがないよな」
「なんだと」
「前にはっちゃんのところへ依頼してきた、博物館の館長さんに相談できないかな」
「あ、それ名案かも。いい業者知ってそうだし」
 九龍は今すぐ連絡を取りたそうだったが、後ろ髪を引かれながらも遺跡へ潜るほうを優先した。
 墓石の隙間をくぐり、遺跡の深部に降りる。そのエリアに足を踏み入れた途端、嫌でも異変に気づかざるを得なかった。
 暑い。
 もはや遺跡の内装が凝っていたところでたまげはしないが、気温の高さには閉口する。
「……早めに駆け抜けよう」
 九龍が立てた方針に、バディたちは一も二もなく賛成した。
 奥へ進み、石碑を読み解き、立ちはだかる化人を倒す。その道程は今までとなんら変わりなかった。
 が、ほどなくして九龍がむすっと押し黙るようになり、皆守はまた彼を宥めなければならなかった。爆破の必要な壁が多すぎたのである。
 九龍は校舎からまっすぐここに来たので、十分な量の爆薬を所持しておらず、その都度魂の井戸と呼ばれる小部屋まで戻る必要があった。普段ならまだしも、焦る九龍にはもどかしく思えたのだろう。音の反響をもとに取手が助言するたび、彼には礼を言いながらもしかめ面になってゆく。
「ここまで来て……」
「ま、無いものはしょうがないさ。前に使ってた削岩機、あれがいいかもしれないな」
「うん」
「……なあ九ちゃん、いい加減機嫌直したらどうだ。銃を持ってる人間がそんなだと、おっかなくて仕方ないんだがな」
「む、……ごめん」
 魂の井戸からの復路を早足で歩きながら、九龍は両手で自分の頬を揉んだ。
「だいたい、なんでそんなにあいつらのことが嫌いなんだよ? 親の仇か何かか?」
「えっ。はっちゃんのご両親は、宝くじで高額当選して、豪華客船で世界一周旅行中だって聞いたけど」
 取手が口元を押さえる。子が子なら親も親、呆れるほど平和なエピソードだ。
「別に仇ってわけじゃない。……『必要のない殺しに手を染めるハンターは三流、ただし《秘宝の夜明け》は例外』って協会の偉い人が」
「例外? どういう理屈だ」
「……《秘宝の夜明け》は、オーパーツの力を悪用して世界を支配しようとするテロリストで……」
 つい数時間前にも聞いた口上だが、その時に比べて語調に自信がない。
 酷かと思いつつも、皆守は指摘した。
「そう教育されたからそれを信じる、ってわけだな。……ああ、責めてるわけじゃない。俺たちだって似たようなもんだ」
 弱者には優しくしなければならない。差別をしてはいけない。誰かに会ったら挨拶をして、チャイムが鳴ったら席に着く。いつの間にか当然のものとしてまかり通っているルール。
 でも、自分の頭で考えてそうしている十八歳が何人いるだろう。教えられたから、これが正しい行為だと思い込んでいるに過ぎない。九龍と皆守たちは同じだ。
 溶岩のただ中にせり上がってきた足場へ飛び移りながら、取手がぼそりと言う。
「どうしてそう教えたんだろう」
「どうして?」
「何か思惑があったんじゃないかな。僕はそんな気がする」
「……考えたことなかった」
「僕もなかったよ。この遺跡で君に手を差し伸べられてから、徐々に考えるようになった」
「それっていい変化?」
「わからない。あと何年かしたら、わかるんじゃないかな」
「ずーっと先かぁ」
 皆守は少し離れたところに立って、梯子に手をかける九龍の後ろ姿を眺めていた。
 偏りに気づいたからといって、人はそう簡単に変わるものではない。きっと九龍はこれから先も、自らの葛藤に見て見ぬふりをしてあの男たちを殺すのだろう。
 そのほうが楽だ。基盤としてきた価値観が揺らいで平気な人間はいない。己の根幹を脅かされてもなお高潔でいられるのは、物語の中の主人公だけ。
 そう思いながら、まだこの背中に期待をかけてしまう。
 どうせ無理だろう。手を汚すことと向き合い続けるなんて。
 だが、無理だと言うな。九龍の口からは聞きたくない。
 二律背反だ。人はみな皮を剥げば真っ黒だと思い知らされながら、彼だけは白くあってほしいと求めている。
 梯子を伝って階下に降りた九龍が、即座にライフルを構える。待ち受けていた【阿良々木】の顔を撃ち抜き、苦悶に満ちた断末魔が響き渡った。
『馬鹿なァ……ッ』
 皆守の耳には、そう聞こえた。
 二足で歩き、害意を持ち、人語を操る。人間と何が違うのか。
 しかし、九龍は迷いを見せなかった。
「謝らないよ」
 弾丸を手早く装填しながら呟く。
「今は」
「……九龍!」
 皆守は突如現れた気配を察知し、鋭く声を発した。九龍が忌々しげにライフルを引き戻し、刀の柄を握る。
 化人が姿を消したかと思えば、次の瞬間には《秘宝の夜明け》に包囲されていた。
 さすがに冗談を飛ばす余裕はなくなる。皆守の眼は敵からの距離を測り始めた。
 が、その時、取手がゆらりと九龍の背後に立った。
「正面の敵に集中してくれ」
「鎌治?」
「背後からの攻撃は、僕がなんとかしてみせる」
 九龍が頷く。若き《宝探し屋》が灼熱の剣を携えて駆け出すと同時に、取手はぬらりと両手を掲げた。
「この曲を聴かせてあげよう」
 九龍に追随する皆守の背後から、精気を抜き取られた男たちの悲鳴が上がる。振り返る暇はない。九龍の襟首を掴み、腕を掠めそうになった銃弾を避けさせる。
 だが、数が多い。庇いきれずに九龍の頬が弾け、血飛沫が上がる。皆守自身にも弾丸が当たりそうになった。
 また頭に血が上るのではないか。
 皆守の予測を立証するかのように、九龍は全身を使って刀を振り抜いた。周囲の熱気よりもさらに高温の炎が燃え上がり、男たちの装備を焼き切る。
 相手は戦闘不能に陥っていた。けれど、まだ全員生きている。
 しかし、九龍はとどめを刺さずに踵を返し、取手の攻撃から持ち直したばかりの敵の群れへ突っ込んでいった。
 炎に形などないのに、刀の軌道が燃え上がって網膜に焼きつく。
 敵の沈黙を確認し、やがて九龍は刀を鞘に収めた。
 倒れた男たちを前に逡巡も見えたが、振り切るように歩き出す。
「いいのか」
 殺すなと述べたその口で、試すような言葉を投げかける。九龍は平坦な口調で言った。
「生かしておくのは危険だけど、それ以上に優先すべきことがあるから」
「先に進むこと……だね、はっちゃん」
「ああ。それに、もっとよく考えたほうがいいと思ったから」
「答えが出るのがジジイになってからでもか?」
「だから意味がないってことにはならない」
「宗旨替えか」
「変えてはないけど、この先はわからないってこと。……なんだよ。俺が来てからペースが乱されっぱなしだって、甲ちゃんが言ったんじゃないか。俺だって同じだよ。影響受けっぱなし。だから一生懸命考えるんだよ。みんながくれた言葉で、もっといい自分になれるようにさ」
「なんのために」
「決まってるだろ。《秘宝》を手に入れるために」
「……ごうつくばりめ」
「今知った?」
 九龍は微笑み、黄金の扉の前で足を止めた。
「さて。念のためにもう一回聞くけど……」
 九龍が問いを発するよりも早く、取手は胸に手を当てて深呼吸し、皆守は頭を掻きながら一つ欠伸をした。
 声を上げて笑った九龍が、ゆっくりと扉を押し開ける。
 むせ返るようだった熱気は、いくらか楽になった。空間がひらけているせいだろうか。
 その中央に喪部と、マッケンゼンと呼ばれていた大男が立っている。
 喪部はこちらに体を向けすらしなかったが、マッケンゼンは九龍の姿を認めると、下卑た笑みを顔じゅうに浮かべた。目を爛々とさせ、声高にがなる。
「さァ、それじゃ始めようか。挽肉パーティをよォ」
 戦闘になったのは予想の範疇だ。むしろ、喪部が九龍に一目置いているかのような言動をしていたことのほうが気味が悪かった。
 マッケンゼンの哄笑が響き渡る中、皆守はちらりと九龍をうかがう。
 焦りも怒りも見受けられない。抑えているのか、感じていないだけなのか。どれだけ側にいても、他人の思考など推量しきれるものではなかった。
 九龍は淀みなくマッケンゼンの手足を撃ち抜き、撫でるように刀を振り下ろす。
 いわゆる人体の急所を外して攻撃していることは、皆守にもわかった。
 とはいえ、相手はあからさまにいたぶるつもりで来ているのだから、容易に太刀打ちできるものではない。いくら皆守がどさくさに紛れて襟首を掴み、取手が踊るように手を取っても、九龍の体には細かな傷が増えてゆく。
「おい、まさか本気で挽肉になる予定じゃないだろうな」
 岩場の陰で片膝をついた九龍に、思わず話しかける。九龍はふーっと息をついて、アサルトライフルを肩と頬で挟み直した。
「殺すなって言ったり殺さなくていいのかって言ったり、あまのじゃくだね甲ちゃんは」
「はっちゃんのことが心配だからだよ」
「よーくわかってるよぉ」
 取手が勝手に断言し、勝手に意向を承知されてしまう。皆守はいたく不満だったが、躍起になって否定するのもどうかと思えて黙り込んだ。
 ぴたりと銃口を定めて九龍が呟く。
「甲ちゃんのことなら顔見なくてもわかると思うな、俺」
 連続した銃声とともに、九龍の肩が反動で大きく跳ねた。
 九龍を細切れにしようと振り上げられた太い腕は、銃撃を受けて踊り狂う。
 耳が痛くなるような静寂を置いて、巨体がどうと倒れ伏す。呻き混じりの罵声が漏れたことから、まだ息はあることが知れた。
 九龍はてきぱきと次の弾丸を装填している。マッケンゼンを退けたとはいえ、これで終わりではないだろう。
 現に、冷ややかな目で成り行きを眺めていた喪部が、壁際から離れてマッケンゼンへ歩み寄っている。手負いの味方を抱えて無理はすまいが、とても油断はできない。
 喪部は腰をかがめもせずに懐へ手を入れて、
「ぐおッ……」
 躊躇なくマッケンゼンの右肩を撃った。
 さしもの九龍も手を止める。
 仲間割れ。いや、違う。
 マッケンゼンを見下ろす喪部の眼球には、強烈な既視感があった。《秘宝の夜明け》を殺めようとした時の九龍と同じ目だ。つい数分前まで並んで言葉を交わしていた仲間に向けるものとは思えない。
 そもそも味方ではなかったのだ。
 喪部自身の言葉が、仰々しく真実のベールを脱がす。
「ボクは、初めからキミたち《秘宝の夜明け》に服従するつもりはない。ボクが興味があるのは、《秘宝の夜明け》が持つ情報ネットワークと……総統であるシュミット老人が持つ莫大な資産だけさ」
「下衆だな」
 小声で呟くと、視線は二人から外さずに装備を整えている九龍から「だな」と短い同意が返ってきた。取手は言葉こそすぐには発しなかったが、眉をひそめて何かを思っていた。
「……哀しいな」
 ようやくこぼれたその一言は、相次いで放たれた銃声に掻き消された。
 一発、二発。喪部の学生服の裾に手をかけんとしていたマッケンゼンが、爆ぜたように倒れる。
 それきり動かなくなった。
 急に、痛いほど喉が渇く。癒してくれるものはどこにもない。死という不可逆な暴力は、瞬く間にありったけの潤いを吸い上げる。一度枯れてひび割れた土地に、草が芽吹き花が咲くことは未来永劫ない。
 皆守の体は、この渇きを既知の感覚として受け止めた。
 ぱちんと感情のスイッチが切れたようだ。喪部の姿が異形のものに変生するのも、それが笑いながら近づいてくるのも、大した衝撃ではなかった。
 九龍は突然ばっと振り返り、皆守と取手を抱えて転がった。ほぼ同時に銃声が響く。
 皆守には視えていた。喪部はあからさまにバディたちへ照準を合わせてから、天井に向かって発砲した。ただ九龍の肝を冷やすためだけのフェイント。
「『お友達』が足手まといで苦労するね」
 九龍の手が、皆守と取手を大事そうに部屋の隅へと押しとどめる。喪部は穴の開いた唇に愉悦をにじませて笑っていた。
「そうだ、そこのマグマにキスできたら、キミだけは連れていってあげても構わないよ」
「誘い方がなってねーぞ童貞」
 吐き捨てて、九龍がアサルトライフルを構える。額を突き破って現れた角の表面で弾丸がはじけ、喪部は軽やかにステップを踏んだ。
「断り方に品がないな」
「合わねえって、こと、だろッ!」
 九龍が大きく踏み込みながら刀を抜く。炎を纏った斬撃に、喪部の顔からすっと笑みが消えた。
 長く爪の伸びた手が振りかざされる。皆守は渾身の力で九龍の腕を引いた。九龍の頭があった場所へ、《力》の奔流がどっと押し寄せる。
「うおっ……あ、ありがと、甲ちゃん」
「眠くてふらついただけだ。それより前見ろ、来るぜ」
「ちっ、こんなことならタイゾーちゃんにもらった炒り豆持ってくるんだった!」
「はっちゃん、頭を下げて」
 取手の声に、九龍が素早く地に伏せる。
 九龍の後ろに立った取手の手によって、ずっ、と肉体から精気が吸い取られ、喪部は不格好にたたらを踏んだ。
 人外と化した青い顔が、憤怒に歪む。
 次の一手は鬼の《力》ではなかった。流れるように懐から抜き取られた拳銃は、取手の眉間を狙う。
 今度はフェイントではない。
 皆守はとっさに取手の体を突き飛ばした。もう投げられるものが何もなかったのだ。
 倒れ込む二人の耳に、九龍の怒声が突き刺さる。
「……喪部!」
 皆守が手をついた先の床は、本物の火山岩のようにごつごつしていた。取手を助け起こして、その両手に怪我がないことをさりげなく確認する。
 背後では、あまり聞きたくない鋭さを孕んだ声の後に、力強く床を蹴る音、刀が振るわれて焔が爆ぜる音。
 今度こそ殺すのだろうか。
「九……」
 振り返りたくないような気もしたが、皆守は立ち上がりながら、九龍と喪部を振り仰いだ。
 息を弾ませた九龍が、崩れ落ちた喪部の首筋に刀を突きつけていた。
 その刃が、それ以上進む様子はない。
「く……っ」
 喪部の肌が、人間のものへと戻ってゆく。九龍は唸るように告げた。
「俺の、勝ち、だ」
「……勝った気になるのはまだ早いよ」
 喪部が不吉な笑みを浮かべる。
 三人が身構えると同時に、がつんと地面が揺れた。
 いずこからか、地鳴りのような音が漏れ聞こえてくる。そのあまりの不吉さに、耳のいい取手が反応しないわけはなかった。
「はっちゃん!」
 もちろん、皆守にも聞こえてはいる。
 だが動けなかった。
 鉛のようになった舌が喉を塞ぎ、息ができなくなる。十八年使ってきたはずの体の中で、血と肉ではなく、まるで砂利と砂が擦れ合っているかのごとき不快感。
 喉を押さえる。じわじわと侵食されつつある視界には、九龍の背中が映っている。
 悲鳴を上げることも、名前を呼ぶことも、手を伸ばすことすら、皆守にはまるで思いつかなかった。
 最後の最後で、どうせ振り返らないだろうと思ってしまったから。
 これまで他の人間がそうだったように。
「この音は、彷徨っていた魂がこの部屋に集まっている音さ。ボクたちがこの部屋に入る前から、この辺りには巨大な氣が渦巻いていた」
 空気を揺らす怨嗟の念にも掻き消されず、喪部の嘲笑が耳朶を打つ。心の底から耳障りだと思った。今聞きたいのはこんな声じゃない。
「彷徨う呪われし魂よ。さあ、ボクの呼びかけに応えて集まり、形を成すがいい。そして、コイツを喰い殺せ!」
 皆守は、その瞬間にも声を上げなかった。
『高周波のマイクロ波を検出。強力なプラズマ発生を確認』
 打ち込まれた楔さえ巻き込んで膨らんだ上肢と、千切れた腹から垂れ下がる臍の緒。その先に繋がる醜い赤子。
 皆守は音もなく佇み、【迦具土】の咆哮が鼓膜を震わせるのを感じていた。
 うるさい。録音した自分の声を大音量で垂れ流されているみたいだ。
 いくら人間の本質が自己愛的であったとしても、この世の声という声がすべて自分のものであったなら、簡単に気が狂うだろう。
 声が聞きたかった。こんなおぞましい響きではない、ごく平凡な彼の声が。
 神仏の類に救われたことなど一度たりともなかったが、この時だけは皆守の願いを戯れに聞き入れたのか。
「甲ちゃん」
 刀を握り直した九龍が、【迦具土】を見上げながら皆守を呼んだ。
 九龍も取手もこちらを振り返らない。姿を現した強敵に、最大限の注意を払っている。
「悪いけど、もっと眠くなってもらえる?」
「……は?」
 それで初めて、おや声が出せたのか、と気づいた。目の周りに触れる。状況は何一つ変わっていなかったが、少なくとも視界は元に戻っていた。
「俺、一人じゃ無理、マジ無理、絶対。鎌治もだぞ。頼りにしてるから。お願い」
「……泣き言言ってる場合か……、気張れ」
「だって夕方からずっとだぞ! いくら訓練してるっつったって腕パンパンだっつの!」
「大丈夫かい? ふふ……。君から頼りにされるなんて、嬉しいな」
「お前も喜んでる場合かよッ」
 と三人(正確には二人)が騒いでいる間に、【迦具土】はゆらりとこちらへ傾いでいた。図体に似合わず小回りが利くらしい。よくない兆候だ。どう考えても呆けている場合ではない。
「ちッ……おい九ちゃん、死にたくなければあの気色悪い土偶を出せ」
「気色悪い……って、プラズマ発生器のこと?」
 ここへ来るまでの道のりで発見した遮光器土偶と勾玉を掛け合わせ、九龍は新たな物体を爆誕させていた。持っているとなぜか武器が電気を帯びるという、いかがわしさ満点の代物だ。
「あんなカッカしてる相手に、その刀の火は効かないだろ」
「いえてる。通電させちゃったほうがまだマシか」
「あの試験管のようになっている部分……音波で割れないかな」
「やってみよう。鎌治、合図したら頼む」
 九龍がアサルトライフルを構えた。
 電気を帯びた弾丸が射出され、盛り上がった肩に弾かれる。狙いを変えて体の下部に撃ち込まれた銃弾は、曇ったゆりかごに小さなひびを作り、赤子を泣き喚かせた。
 歪に封じられた口で、【迦具土】が哭く。目の前が真っ赤になるほどの炎が押し寄せた。
「あつっ……」
「九ちゃん!」
 駆け寄ると、九龍の右腕の袖は大きく焼け、その下の肌にも見る間に火ぶくれが生じていた。
 皆守の手が体に触れた瞬間、九龍は叱咤するように自らの肩を叩いて抜刀した。
 試験管に接続された腹へ一閃。後ろへ跳んで距離を取り、のけぞる【迦具土】の赤子目がけて、アサルトライフルを連射した。
 弾が切れるタイミングで、どうしても隙が生まれる。敵はそれを見逃さず、大きく息を吸い込んだ。第二撃の予兆。
 皆守は九龍を掴んで飛びすさる。《宝探し屋》はそこまで読んでいたかのように、不安定な体勢から「鎌治」と叫んだ。
「ああ、任せてくれ」
 何もない場所へ炎を吐き出した【迦具土】に向かって、取手が豪然と両手を掲げる。
 まるで、ずっとこうして遺跡を巡ってきたかのような連携だった。
 今となってははるかな思い出のようだが、つい数時間前まで、皆守は死ぬ準備をしていた。男子寮の部屋にはもう、スパイスの一つもない。
 だが、こうして三人で必死に戦っていると、あれは間違いだったのではないかと思えてくる。
 人生を閉じる覚悟なんて、本当は決めなくてもよかったのではないか。
 何より、今この腕の中にある、迷いを抱えてもなお歩みを止めない男の瞳を見ているとそう思う。
 取手の作った数秒間で、九龍は新たな弾薬を装填し終えた。
「あばよッ」
 猛追を受けてひびの入っていた【迦具土】の腹は、九龍の銃撃によってついに割れ、辺りには泣き声に似た断末魔がこだました。
 濃いオレンジ色の体が砂塵と化す。
 その砂はさらに細かい粒子へと分かたれながら、一枚の紙切れを形づくった。
 古びた紙片は空気の抵抗を受けて彷徨い、火傷を負った九龍の手の中に収まる。
 桜の花弁が舞い散るようなスピードだったから、皆守の目にははっきりと正体が映っていた。
 色あせた写真。
 その写真を視界に捉えた瞬間、皆守の世界からは美しいものが何もかも消え去った。
 寒々しく感じる一方で、安心感もある。
 長い間離れていたけれど、皆守の本当の居場所はこの、微弱な光すら射さない泥濘の底だ。
 遠いような近いような位置で、喪部が笑っている。
「世界は広い。そして、その失われた文明の数だけ《秘宝》は存在し、受け継ぐ者を待っている。つまり、ボクのような者を……ね」
「逃がすか! ……待て、喪部!」
 喪部に投げ渡された《鍵》が入っているという箱を抱え、九龍が追いすがる。
 後方にいる皆守は、彼の瞳には映っていない。
 皆守は煤けて傷んだ背中を見つめていた。

 確かに間違っていたのだ。何日もかけて皆守が備えていたものは。

 皆守がすべきだったのは、死ぬ準備ではない。
 《転校生》を殺すための準備だった。

back