昼の雨
窓の外の雨を見ていた。
朝からぐずついた天気ではあったが、昼前から本格的に霧雨が降り出し、しとしとと秋の校庭を湿らせていた。
窓際の席の特権として、細く窓を開ける。教科書を読み上げる脂っこい教師の声を、雨音が淑やかに掻き消してくれた。
もうすぐ昼休み。
食堂へ行くのは、外に出て傘を差さなければならないから面倒だ。いつものように、売店で適当なものを買って屋上で食べるのも、あそこは屋根がないから難しい。
もともと本気でこのあとの予定を立てていたわけではなかったが、ぼんやりと考えるうちに思案することすら煩わしくなってきた。この授業が終わったら保健室へ行こう。雨の匂いに包まれて眠るのも悪くはない。食欲は睡眠欲で代替できる。
そうと決まれば、もう考えることもなくなった。皆守は腕組みをし、窓枠へ寄りかかるようにして眠気に身を任せた。
雨の音。
規則的なようでいて、ときおりリズムが跳ねる。
同じような人間の集まりかと思えばはみ出し者もまれに混入している、学校という場所に似ているかもしれない。
それが途切れたことで、皆守は短い眠りから呼び戻された。皆守の席の横にある窓を閉めた人物は、「風が強くなってきたから」と笑った。
「居眠りうまいな、皆守」
「……居眠りに上手いも下手もあるかよ」
言葉を返しながら、皆守は大きく伸びをした。いつの間にか授業は終わっていて、生徒たちは思い思いの席で弁当やサンドイッチなどを広げていた。寝起きの身には頭痛を催す喧騒。ため息のような吐息が小さく漏れる。
「昼、一緒に食べようぜ」
それを気にしたそぶりもなく、葉佩九龍はにこやかに笑っている。皆守は渇いた瞳で彼を見上げた。
「お前、昼休みはあちこち回ってるんじゃないのか」
「おっ、そうそう。そうなんだけど、今日は雨だしさ、ふつうに友達と食べたいなと思って」
「……悪いが、他を当たってくれ」
誰がいつ友達になったんだ、と反射的に思ったが、口には出さなかった。皆守が演じている役割を考えれば、そこまで突き放すことはできない。語調は柔らかく、だがオブラートに包んだ拒絶を投げつける。
ところが、葉佩は引き下がらなかった。
「えっヤダ、食べようよ」
「お前もしつこいな」
「だってほら、転校してきたばっかで友達も少ないし。一人でぽつーんと食べるのも寂しいじゃん」
だからいつ誰と誰が友達になったんだよ、と内心では思いながらも、彼の言うことがわからないではなかった。この若いざわめきの中、転校してきたばかりの少年が黙念と売店のおにぎりをほおばる姿を想像する。哀愁漂うものがあった。ただの高校生ではないとはいえ。
ポケットに両手を突っ込み、舌打ちまじりに立ち上がる。昼食を終えたら早々に葉佩とは別れて、保健室へ行こう。それか、雨が上がっていれば早退しよう。
「ありがと」
葉佩は何も知らず、呑気に礼を言ってくる。二人で売店へ行き、適当に食べるものを買った。教室に戻ってくると、女友達とはしゃいでいた八千穂が、驚いたような視線を一瞬向けてくる。だが、声はかけられなかった。
このクラスの人間も、さらにいえば去年と一昨年のクラスメイトたちも、みなそうだった。皆守の態度にそっと距離を置くか、あるいは逆上して絡んでくるか。後者であれば、皆守は降りかかる火の粉は払うたちだったので、じきに払われていなくなり、やがて静かになった。
他人に干渉されないということは、自分の計画が狂うこともないということだ。だから、こんなふうになんとなくとはいえ予定を変更する羽目になったのは、かなり久しぶりのことだった。
葉佩は食べ物の入ったビニール袋をいったん皆守の机に置くと、前の席の持ち主に許可を取り、そこの机を皆守のものとくっつけた。高さが若干違うのでデコボコにはなったが、この教室の中での陣地が広くなったようだった。
「外から戻ってくると空気こもってんなー。やっぱりちょっと開けていい?」
尋ねておきながら返事も聞かず、葉佩が少しだけ窓を開けた。湿気と熱気に満ちた空気がそこから抜けて、代わりに新鮮な酸素が入ってくる。
葉佩はさっそくあんパンとやきそばパンを机に広げ、「いただきます」と両手を合わせた。
「甘いのとしょっぱいのって無限にいけるよな」
そう言いながら皆守の手もとに目をやり、そこにある二つのカレーパンを捉えて「……無限に……」と首を傾げる。
「いけるだろ」
「いけるか?」
「いける」
「はあ、カレーパン好きなんだ」
「カレーは好きだな」
「もしかして詳しい?」
「まだまだだ。これまでの深遠な歴史を考えれば、ほんの一部しか追えてない」
「ふーん……、まあ皆守ってコリショーっぽいもんな」
ハラショーみたいな発音で言われ、一瞬なんのことかわからなかったか、頭の中で「凝り性」と漢字変換する。
「お前は違うのか」
「ん?」
「凝り性」
彼の正体を思えば、物好きには違いない。若くしてそんな職業を選ぶくらいだ。
だが、葉佩はにっと笑い、やきそばパンを咀嚼して首を横に振った。
「俺はぜんぜん。あんまりこだわりとかないほうだし。確かにその、いいもん見つけたらエクスタシー感じるけどね」
微妙にぼかされた言い方を翻訳するならば、「《秘宝》を手に入れたら」ということだろう。
葉佩も今までの《転校生》と同じだ。安寧に満ちた墓を我欲で荒らし、その罪を贖うため眠りにつくこととなる。こうして向かい合って食事を取るのも、これが最後かもしれない。
その可能性を考慮に入れているのかいないのか、はたまた気づいていないふりをしているだけなのか、はたから見る限り葉佩はリラックスした表情を浮かべていた。
だから皆守も、あくまで学友の一人として振る舞う。
「とんだ変態だな」
「へへへへ」
葉佩が照れ笑いする。そこだけ聞きかじった同級生がこちらを向いた。皆守が他の同級生と変わらぬ益体もない軽口を叩いていることに、興味を引かれたようだった。
望むと望まざるとに関わらず、皆守も葉佩もクラスというコミュニティの中で生きていた。ルールを守って大人しく生きていれば、冷たい雨に濡れることもない箱入りの羊。
その中に羊の皮を被った狼が紛れている。だがそれは、食われる寸前まで誰も知らない。
狼の筆頭は、高校生らしい健啖家ぶりを発揮し、あっという間にパンを食べ終えてしまった。皆守と世間話に興じるうちに、他の生徒がちらほらと姿を消していることに気がついたらしい。
「あれ、みんなどこ行くんだろ」
「着替えだろ。次は体育だからな。食事の直後に即運動なんて、かったるいことこの上ないが」
「そっか。更衣室ってどこだっけ」
「ああ……案内してやるよ」
「ありがとう」
転校直後に八千穂が校内を案内してやっていたが、男子更衣室には寄らなかったのだろう。自主休講のついでに連れて行こうと思い、手ぶらで立ち上がる。自分の鞄から運動着を出した葉佩が、不思議そうな表情を浮かべた。
「皆守、着替えは?」
「俺は急な頭痛で保健室に行く予定なんでな」
「えっ、大丈夫か。蛇の皮いる?」
なぜか葉佩が財布からずるんと蛇の皮を出そうとするのを丁重に断る。
「いい。……察しろよ」
「ん? あ、もしかしてサボりってこと?」
「えーっ」
女生徒の声が割って入り、ややこしいことになった、と皆守は天を仰いだ。《転校生》の隣は八千穂の席なのだ。案の定まっすぐに憤っている。
「皆守クン、またサボり? 葉佩クンと一緒に出たらいいのに」
「ちなみに、体育って何やるの?」
「えっと、雨だから、女子は体育館でバスケかバレー、男子は武道場で柔道か剣道、かな」
なおのことだるい。さっさと一抜けしようとすると、葉佩に学生服の裾を掴まれた。
「待って待って。一緒にやろう」
「一人でやれ。俺を巻き込むな」
教室を去らんとする力と、とどめんとする力が拮抗し、ぐぐぐぐ、と皆守の制服が引っ張られた。葉佩が泣き落としの技を使ってくる。
「柔道も剣道も一人じゃできないよ。俺、そういうのやったことないし。なぁ頼むよー」
「そうなんだァ。葉佩クン、得意なのかと思ってた」
純粋な八千穂は真に受けているが、スポーツとしての武道は心得がなくとも、実戦向きのものはばっちり履修済みということだろう。そんなやつと組まされるなんてごめんだ。
しばらく無言の拒否を続けていると、葉佩はしゅんと肩を落とした。
「……まあ、無理強いすることはできないけどさ」
「……なんだよ、そのツラは。……ちッ、わかったよ、出ればいいんだろッ」
「えっ、いいの?」
「わー、やったね葉佩クン!」
半ば自棄になった皆守の前で、八千穂と葉佩は手を取り合って喜んでいる。二人とも感情を顔や体で表すタイプらしく、湿気によって薄く水気を帯びた床で足を滑らさないかが気にかかった。
寮のコインランドリーで洗濯して持ってきたはいいがさっぱり使っていなかったジャージを、ロッカーから引っ張り出す。使わないくせにそこそこきちんと畳んであり、自分の最低限の勤勉さにげんなりした。ロッカーを開けて中が散らかっていると、ほんのわずかしかない授業を受ける意欲がさらに削がれるので、皆守は他の男子生徒に比べれば整理整頓に熱心なほうだった。もちろん、中身を移動させる機会が極めて少ないことも影響している。
「あ、皆守、あれ持ってる? シューってやつ」
スプレーを噴射するジェスチャーをした葉佩に、ロッカーの奥から発掘した制汗剤を見せる。去年、何かのついでに買ったかもらったかしたものだが、使えないことはないだろう。
「あとで借りてもいい?」
「好きにしな」
「ありがと」
葉佩はこの制汗剤というものに興味津々だった。つまり、これまでわざわざ汗の臭いを気にするような環境にはいなかったことの証左だ。日本の高校生にとっては当たり前のものが、彼にとっては当たり前ではない。ともすれば相手を単なる級友と勘違いしそうになる頭が、こんなところで目を覚まして一線に気づく。
八千穂はクラスメイトの女子に呼ばれ、ぶんぶん手を振って女子更衣室へ走っていった。皆守の安眠を妨げる要因その一がいなくなり、少し平穏が戻る。
「柔道と剣道って好きなほう選べるの?」
「どうだったかな……選べるんじゃないか」
「じゃあ柔道にしようぜ」
「絶対に嫌だ」
「えっ、なんでさー」
男子更衣室への道中、皆守は断固として主張した。競技そのものに恨みはない。ただ、以前たまたま人数の都合で柔道のグループに振り分けられたとき、夕薙大和がやたらと張り切って挑んできて大変迷惑したのだ。男子の中でトーナメントをやって、皆守はもちろん初戦敗退したかったのに、後ろから彼がやいやい野次を飛ばしてくるものだから、すっかり計画が狂ってしまった。
もちろん、夕薙はその後無駄な体格のよさを活かして優勝を勝ち取っていた。どうも皆守と当たりたかったようだが、皆守は絶対に対戦したくなかったので、二回戦で敗退をもぎ取った。
ふと、傍らを歩く同級生に目がいく。あの1Dayトーナメントは、雨で屋外での授業が行えなくなったときに、臨時で開催されるものだ。葉佩はどこまで食い込むだろう。爪を隠してあっさり負けるか、空気を読まず連戦連勝か。
そこまで考えて、馬鹿馬鹿しい、と自らの思考を捨てた。皆守には関係のないことだ。
狭苦しい更衣室で服を着替え、校舎の昇降口に向かう。傘立てから、葉佩は柄が黒い傘を、皆守は柄が紫色の傘を、それぞれ抜き取る。皆守が登校したときにはもう降り出していたので、後者はまだ濡れていた。
「肌寒いな」
傘を差して先に校舎を出た葉佩が、そう言って振り返る。大雨というほどではなく、さりとて傘がなければ視界を遮られる程度の小糠雨が、ぴんと張ったビニールにぱつぱつ弾かれていた。
皆守は開いた傘をずらして灰色の空を見上げ、仕方なく外に向かって歩き出す。
雨はまだ止まない。