紅色
肋骨のような花弁が視界の端をちらついた瞬間、あっ、と思った。
半年ぶりだ。深舟は三月にも同じ場所でこの花を見ていた。
通学路にある植え込みのごくわずかなスペースに咲いた、数輪の彼岸花。
意図を持ってそこへ植えられたというよりは、偶然球根が転がり込みでもしたのだろう。付近に同種の花は見当たらない。ただこの一株だけが、きっかり半年ごとに目を覚ます。
前に見た時も、あっ、と思った。その後に起きた出来事と結びつき、記憶の底へこびりついている。
「――けど、簡単だったでしょ? 混ぜて焼くだけだから」
莢の声に、深舟は過去から現在へと引き戻された。
今は春の初めではなく、ようやく残暑も和らいできた九月の半ば。いつものように莢と二人で、暮綯學園高校へ登校している途中だった。
なんの話だっけ、と深舟は記憶を巻き戻す。
「そうね。一人でクッキーを焼いたのは初めてだったけど、なんとかなったわ」
深舟はキッチンでの奮闘を思い返した。
莢はお菓子作りが得意だ。不器用な深舟はとても真似できないと思っていたが、このたび簡単なレシピを教えてもらった。それで、思い切って挑戦してみたわけである。
その成果は鞄の中に隠してある。深舟は今朝それをタッパーに詰めた時のことを思い出し、小声で付け加えた。
「……だけど、ほとんど焦げちゃって」
「あら~。中は火が通ってたのかなァ? 一つ割ってみた?」
「ええ、それは大丈夫だったわ。黒焦げってほどでもないから、全体的にはなんとか食べられる程度ね」
「な~んだ、それなら成功だよォ。初めてで百点を取れる人なんかいないんだから。自分で焼いたクッキー、おいしかったでしょ? さゆりちゃん」
深舟は答えようとしたが、甘ったれた男子生徒の声に遮られた。
「え~。さゆりちゃん、クッキー焼いたの? おれも食べたーい」
「龍介……」
苦々しく名を呼ぶ深舟をよそに、龍介は笑顔で莢と挨拶を交わしている。
最悪のタイミングだ。深舟は占いを信じるタイプではないが、今朝の山羊座の運勢は最下位だったのかもしれない。いや、それなら同じ星座の龍介もアンラッキーということになるから、単についていないだけか。
とにかく、彼に聞きつけられたら最後「おれにもちょうだい」と騒がれるに決まっている。東摩龍介ときたら、甘やかされて育ったのが明白なちゃっかり屋で、おやつは必ず分けてもらえるものと信じ切っていた。
案の定、龍介は教室へ着いてもしつこく食い下がった。先に来ていた支我にも「おはよ。なぁなぁ、さゆりちゃんがクッキー……」と報告しかけたので、締め上げて席へ連行する。
「大きい声で言わないでよッ」
「なんで~? いいじゃん、家でお菓子作りとかかわいくない?」
それは、完成度が高ければの話だ。どうせ人の話を聞きかじったなら焦げたというくだりも聞いていればよかったのに、そこは耳に入らなかったらしい。
深舟は睨むように彼を見上げた。どちらかといえば長身の部類に入る龍介は、いつも背中を少し丸めて相手と目線を合わせている。
「どうしてそんなに食べたがるわけ?」
「え~、だって気になるじゃん。あのさゆりちゃんがクッキーなんて。おれ、甘いの好きだし」
龍介は臆せずに言い張る。
深舟はひとまず、自分の机に鞄を置いた。
「……初めて作ったから、出来がよくないのよ」
「そんなの気にしないってぇ」
「本当に? ……笑わない?」
「笑わない、笑わない」
こちらの切実さと比べて軽い口調が気がかりではあったが、深舟は意を決してタッパーを取り出した。
ぱこっと蓋を開ける。中にはハートや星に似た形の、こんがり焼け過ぎたクッキーが入っていた。形状が不完全なのは型抜きに失敗したためだ。
龍介は自らの頬を両手でぱちんと挟んだ。
「わぁ。やっぱり」
「何よ。……笑うんだったら笑いなさいよ」
約束した手前、かなりがんばってこらえているらしく、龍介の声は震えていた。これだから彼には知られたくなかったのだ。決して人が悪いわけではないが、自撮りが下手だとかヘアアレンジがワンパターンだとか、自分はできるからといって面白がって深舟のウィークポイントをつついてくる。
普段なら深舟がひとしきり怒って、龍介がぺこぺこ謝れば終わりだ。なんだかんだ言って、二人の間ではお決まりのやりとりになっている。本気で癇に障るほどではない。
しかし今日は、いつもの勢いが出なかった。
今朝、彼岸花が咲いたから。
「……まァ、いいわ。焦がしたのは事実だし。そんなに言うならあげるけど、お腹壊しても知らないわよ」
ハートのなり損ないを一枚差し出すと、龍介はつられて受け取ったが、明らかにうろたえ始めた。
「えっ……? さゆりちゃん、もしかして今日、具合でも悪いの? それか、やなことあった?」
「違うわよッ。まったく、私のことをなんだと思ってるのよ……。いいから、早く食べたら? もうすぐ先生来るわよ」
からかっても叱られないことに動揺しているらしい。龍介は中途半端な顔でクッキーをほおばり、「あ、おいしい」と漏らした。
「え? さゆりちゃん? ……え?」
見た目に反して意外と食べられる味だったことも混乱に拍車をかけたのか、龍介は担任教師に声をかけられるまで深舟の周りを行きつ戻りつしていた。
「はい、それではホームルームを始めます。早いもので九月も折り返し、中間テストまで一ヶ月となりました――」
担任の声を聞きながら、深舟は黒板の端に書かれた日付に目をやった。
もう九月。彼岸花が咲いたあの日から数えて、正確には明日で半年が経つ。
深舟が物思いに耽る間に、担任は連絡事項を伝え終えて教室を出ていった。生徒たちは授業の準備をしたり、友達とふざけ合ったりと、思い思いに過ごしている。
前の席の女子生徒も、後ろを向いて深舟に話しかけてきた。
「ねェさゆり、今日がなんの日だか知ってる?」
「え……?」
心臓が跳ねる。深舟の記憶では
彼女はスマートフォンを差し出し、ロック画面に設定した写真を見せつけてきた。
「彼氏と付き合って一ヶ月記念日ッ」
「……ああ、そう。よかったわね」
「反応薄ッ。もっと祝ってくれたっていいじゃーん」
急激に高まった緊張の反動で、受け答えが棒読みになってしまった。付き合い出すまでの過程も彼女の口から聞いていたので、祝ってやりたい気持ちはあったが。
幸い、すぐに一時限目の授業が始まったため、この話題はそこで終わった。
日本史の資料集を開くのに手間取るふりをしながら、深舟はクラスメイトたちの様子をうかがう。ここから見る限り、変わった点はない。
皆、忘れてしまったのだろうか。それとも本当は覚えていて、表に出さないだけなのか。
明日は彼女の月命日だ。
三月に屋上から飛び降りて自殺したとされている、深舟の友達だったあの子の。
◇
翌朝も彼岸花は咲いていたし、クラスメイトたちは相変わらず陽気だった。
深舟はいちいち思い煩うのをやめた。今さら蒸し返すようなことでもない。亡くなった子とは一年生の時のクラスが同じで、その後もよく話す仲だったけれど、正直なところ大親友とまではいえなかった。
時間が傷を癒してくれたのもあり、気持ちを抑えようと思えばできてしまう。深舟は高校生らしく授業に集中することにした。今日の体育はバスケットボールだ。
「さゆり!」
声とともにボールが飛んできた。受け取って、相手チームのオフェンスをかわしながら味方へ回す。
一年生の時は、なかなかパスを出せなかった。
思い出して、ちくりと胸が痛む。ボールを渡すには信頼が要るのだ。あの頃の深舟は、ごく限られた相手にしかパスを回せなかった。
最初は莢だけ。一人、また一人と増えて、亡くなった彼女もそこに加わった。
チームメイトのシュートしたボールが、ばすん、とゴールネットへ吸い込まれる。と同時に、試合終了のホイッスルが鳴った。同点で引き分けだった。
着替えのために更衣室へ移動すると、バラエティに富んだ制汗剤の香りや、同じくらい多種多様なおしゃべりが室内に充満する。深舟はむせ返りそうになって小さく咳をしたが、その音も女子生徒たちのはしゃぎ声にかき消された。
「えーッ、今日誕生日なのォ? おめでとう」
「ありがとッ。そういえば、今日ってなんの日か知ってる?」
――彼女の月命日。
「おめでとう。なんの日だったかしら?」
もちろん、そんな答えはおくびにも出さず、深舟は笑って会話へ加わった。こちらは今後もここで生きていくのだから、あえて波風を立てる必要はない。空気を読むことの重要性はこの十七年で痛いほど思い知らされてきた。
女の子たちと連れ立って教室へ戻ると、後ろのほうに着替えを終えた龍介がいた。支我と額を突き合わせて何か話している。
一度は冷たく瞼を閉ざした彼の横顔が、ふと深舟の意識に映り込んだ。記憶の中に棲む死体が問う。
それでいいのか。
例えば龍介があの時、本当に亡くなっていたとしたら?
もし奇跡が起きなければ、深舟は龍介のことも心の奥のダストシュートへ投げ入れようとしていたのだろうか。お菓子をシェアするときに触れる指先の熱さも、ふらふらと揺れる笑い声も、もうすっかりなじんでいるのに。
それは、あんまりな気がした。
深舟の心の声は厄介で、本人であってもなかなか黙らせることができない。だから、放課後になって教師の監視が緩む頃を見計らい、こっそり階段を上った。
夏休み前に比べて、暮綯學園の四階は格段に明るくなっている。深舟たちが壊した隠し部屋の壁だけではなく、教室にも手が入れられていた。今後は副教科や少人数授業のために活用されるそうだ。
引き戸を開けて教室へ入る。窓の覆いは外され、色づき始めた西日がワックスの剥げたフローリングを舐めていた。
この教室の真上から彼女は落ちた。そして、廊下では龍介が――。
深舟があわ立つ腕をさすったその時、背後でかすかにレールの軋む音がした。
「四階は立ち入り禁止のはずだぞ、委員長」
「支我くん……。どうしてここに」
支我はその質問には答えず、車椅子を操って深舟の隣へやってきた。
「一人でクッキーを焼いたんだって?」
「え? ええ。龍介に聞いたの?」
出し抜けに問われ、怪訝に思いながらも深舟は頷く。支我が微笑した。
「昨日からずっと、『からかっても深舟が怒らない、変だ、何か心当たりはないか』と大騒ぎでな」
「失礼な話ね」
深舟は眉間に皺を寄せる。何も支我にまで訴えなくてもいいではないか。悪戯を先生に密告されたようで、うら恥ずかしい。
「まあ、あいつなりに心配していたんだろう。それで、そういえば今日は月命日だったと思ってな」
支我は落ち着いた口調で言った。
「……支我くんは覚えていたのね」
「強く意識していたわけじゃないがな。言われて思い出した。深舟は面識があったんだろう?」
「ええ……一年生の時に同じクラスで、最初はあまり話さなかったんだけど、五月の校外学習の班が一緒になったの。莢が間を取り持ってくれて……」
ありきたりな思い出を語りながら、深舟は声を詰まらせた。
やっぱり、気持ちを抑えられるなんて嘘だ。
世界を理不尽に引き裂かれた衝撃は、深舟の骨の髄にまで染み込んでいる。唯一無二の大親友ではなかったかもしれないけれど、それでも自分たちは確かに友達だった。繋いだ手の柔らかさも、彼女が愛用していたトリートメントの香りも、たかが半年では消えてくれない。
深舟が生きる世界には死というものが存在し、安らかな日々を容易に破壊してしまう。繭の中へ逃げ込んでも、襟首を掴んで引きずり出される。幸福の期限を告げる使者はいつも《霊》の形をしている。
どうしようもない現実から目を背け逃げ続けるのか、あるいは振り返って戦うのか。その岐路に立たされていた頃、龍介が暮綯學園へやってきた。そして深舟は後者を選んだ。
「俺は以前、お前に言ったな。真実を知るのが必ずしもいいことだとは限らないと。今はどうだ? 真実を知って、よかったと思うか?」
支我に尋ねられ、深舟は一度だけ鼻を啜る。
彼女は自殺したのではなかった。
この學園に潜んでいた《白いコートの男の霊》に襲われ、必死で屋上まで逃げて、落ちて死んだ。
それが、深舟の掴み取った真実だ。
「……よかったわ。すべてを知ったからって、現実が変わるわけじゃない。だけど、おかしいことの裏には必ず真実があるんだって……闇雲に怖がったり、諦めたりする必要はないんだって、実感できたもの」
また声が震えそうになったので、ちゃんと仇も討てたしね、と深舟は虚勢を張った。支我の瞳がほんの少し丸みを帯びる。
「それならよかったよ。編集長がお前たちを夕隙社に入れようと言い出した時は、どうなることかと思ったが」
「あの時の支我くん、反対だって顔に書いてあったわ」
二人で笑っていると、廊下の奥から足音が近づいてきた。
「あ! いた~!」
見ると、龍介が教室の入り口で肩を上下させ、ずり落ちかけたリュックの肩紐を引っ張り上げている。
「どうした、龍ちゃん。何かあったのか?」
「いや……二人ともいないから、もしかして先にバイト行っちゃったのかと思って、学校じゅう探してた」
「電話すればよかったじゃない。もう放課後なんだし」
「確かに……」
龍介が子犬みたいな瞳をするので、深舟は思わず吹き出した。
「笑うなよ~。思いつかなかったんだからしょうがないだろ」
龍介の耳が赤くなる。深舟はくすくす笑いながら目尻を拭った。彼は口を尖らせ、背負っていたリュックを机に置く。
「泣くほど笑わなくてもいいじゃん。さゆりちゃんの意地悪~。おれもがんばって作ってきたのにぃ」
「作ってきた?」
龍介は、リュックから小ぶりの弁当箱を取り出した。蓋を開けると、包丁で切ったようなそっけない形のクッキーが入っている。
「人のことばっか言うのも悪いかなと思って、莢ちゃんにレシピもらって作ってみたんだよ。そしたら全然うまくいかなくて……型もないし、焼きムラがひどいし。これはまだ生き残ったほう」
よく見ると、焼く時にくっつけ過ぎたのか、二つが融合しているものもあれば、端が炭のように黒いものもある。「絶対おれのほうがさゆりちゃんより女子力高い!」と豪語していた彼も、お菓子作りは守備範囲外だったらしい。
「ふーん」
深舟は彼のことを馬鹿にはしなかった。出来でいえば五十歩百歩だ。
「だからさ~、そのぉ、からかってごめんなさい」
深舟は意味もなくちょっとばかりスカーフの位置を直した。お互いぎゃーぎゃー言い合うのが日常だったのに、殊勝な態度を取られては逆にどうしていいかわからない。
支我が大真面目に言う。
「龍ちゃん……具合でも悪いのか? 何か嫌なことがあったなら聞くが」
「ちがーう。おれのことなんだと思ってんだよ」
昨日どこかで聞いたようなやりとりに、深舟はまた吹き出した。
龍介のクッキーはいかにも不恰好で、見るからに素人製だ。でも、味はいいに決まっている。彼は教科書から大きく外れて冒険するタイプではない。
深舟はそれを知っていた。友達だから。
「当然、食べていいのよね?」
「いいけどぉ……ちゃんと焼けてるかなぁ。小麦粉って生だと食べられないんじゃなかったっけ」
「え? そうなの?」
「え? 知らないで作ってたの?」
「くッ……」
今度は支我が笑い出す。すかさず龍介がやり返した。
「あ、今度は正宗が作ってくる番な。今笑ったから」
「俺が?」
「順番で言ったら妥当だろ。期待してるぜ~」
「おい……まあ、深舟に教わればいいか」
「わッ、私? 莢のほうが絶対にいいわよ。なんなら、私ももう一回教わりたいくらい」
そんな話をしながら、三人は龍介のクッキーに手を伸ばす。生地はやや固かったが、バターの香りと素朴な味わいが後を引き、いくらも経たぬうちになくなった。
いつしか、窓の外には鮮やかな夕焼けが広がっている。
紅。花の紅、血の紅、怖い紅。
だが、今窓から差し込んでいるのは、同じ色彩であり違う色。
ただの自然現象であって、深舟たちがもがきながらも一日を生き延びたという証に過ぎない。
「――ごちそうさま。さて、そろそろ行くか」
「時間、ギリギリになっちゃったな~」
「まあ、遅刻というほどではなさそうだし、たまにはいいんじゃないか」
支我がしれっと言う。龍介は椅子を片づけていたが、その言葉に振り向いた。
「珍し~。五分前行動はどこ行った?」
「ははッ。人は多かれ少なかれ、身近な人間の影響を受けるものだからな」
「おれの目ぇ見て言うなよ。確かによく二度寝しちゃって、チャイムが鳴る寸前に滑り込んでるけどぉ~」
「『朱に交われば赤くなる』ってことかしらね。支我くん、気をつけたほうがいいんじゃない?」
「おれ、朱?」
拗ねる龍介に、深舟と支我が笑う。
衣替えを間近に控えた三人の白い夏服は、濃い色に染め上げられていた。
それを美しいとすら思う。
「ほら、バイトに行くんでしょ」
龍介の背中を押す。
深舟はもう、紅色が怖いとは思わない。